私事覚書

君に今、伝えておきたいこと

桜庭一樹作品に見る「アイドル」

 以下の文は2017年12月に学校の授業で書いたこじらせ自由研究論文です。加筆修正はしていません。
 「A」(「じごくゆきっ」収録)「少女七竈と七人の可愛そうな大人」「ゴージャス」(角川文庫「少女七竈と七人の可愛そうな大人」収録)の内容に触れているのでその点については自己責任で観覧をよろしくお願いいたします。



0.はじめに

 今日、私達が「アイドル」を目にしない日はない、と断言していいほどアイドルの存在は現代社会に深く浸透している。しかし私はかつて、彼女達の存在に対して違和感を感じていた。なぜなら、アイドルが歌う歌は基本的に自分達で作った歌ではないからである。「歌」とは本来「自分」を表現するための作品であると考えている私にとって、自分で作った歌ではない歌を自分の歌として歌うその姿はどこか違和感があった。結局この違和感に対して、当時の私は「アイドル」は「歌手」ではないから歌う歌を自分で作る必要はないのだということにして自分を納得させた。そんな私が未練がましく再びアイドルについて考察しようとしているのはある本の、こんな文に出会ったからである。

「(前略)タレントだよ。少女の姿をした女優であり、歌手であり、司会者であり、ようするにすべてをこなす芸能人だ」
「それが、アイドルと呼ばれていたんですか?」

 アイドルは「歌手」であると定義づけている桜庭一樹著の「A」を読み、私はもう一度桜庭一樹作品の視点を借りて「アイドル」とは何かを考えたいと思った。

1.研究の目的

 特にアイドルに関する記述の多い桜庭一樹作品の「A」「少女七竈と七人の可愛そうな大人」「ゴージャス」を読み解き、「アイドル」とは何かを考察し定義する。

2.仮説

 消費者が「理想」とすれば活動内容に関わらず「アイドル」である。すなわち、「アイドル」とは「消費者の理想の人物」である。

3.研究

Ⅰ.「アイドル」という単語が持つ意味

 まず、辞書でアイドルがどう定義されているか確認する。

・アイドル【idol】①偶像。イドラ。②あこがれの対象者。人気者。特に、青少年の支持する若手タレント。
広辞苑第六版 岩波書店より引用
・idol①崇拝される人[物]。アイドル。②偶像。偶像神。邪神。
ジーニアス英和辞典第五版 大修館書店より引用
 辞書で「アイドル」という単語を引くと、「偶像」などといった抽象的な対象物として定義されていることに気付く。更に「偶像」の意味を調べると前述したのと同じ広辞苑では①木、石、土、金属などで作った像。②信仰の対象とされるもの。③伝統的、または絶対的な権威として崇拝・盲信の対象とされるもの。と定義されている。(イドラの和訳も偶像である)

Ⅱ.桜庭一樹作品中の記述を読み解く

 ここからは桜樹作品から「アイドル」について考察していく。

第0章 桜庭一樹作品の紹介

 今回の論文で扱う桜庭一樹作品は「A」「少女七竈と七人の可愛そうな大人」(以下「少女七竈~」と表記)「ゴージャス」の三作品である。

・A 
「SF Japan 2005 WINTER」(2005年)収録 徳間書店
「じごくゆきっ」(2017年)収録 集英社
少女七竈と七人の可愛そうな大人 
野生時代〇五年一〇月号」~「野生時代〇六年五月号」(2005~2006年)掲載 角川書店
少女七竈と七人の可愛そうな大人」(2006年)収録 角川書店
少女七竈と七人の可愛そうな大人」(2009年)収録 角川文庫
・ゴージャス
野生時代〇七年二月号」(2007年)掲載 角川書店
少女七竈と七人の可愛そうな大人」(2009年)収録 角川文庫

 「A」は「アイドル」のいない2050年代に再び「アイコンの神」がとりついて離れない元アイドルであるAと、若く美しい体を持つ生きた死体であるBを用いて大手広告代理店が「アイドル」を復活させようとする短編である。『0.はじめに』で触れたように私がアイドルについて考え直すきっかけになった作品であり、2005年と執筆されたのはこの三作品の中で一番早いが舞台を近未来に設定しており「アイドル」が存在しない世界の住人による「アイドル」に対する認識が非常に興味深く記述されている。
 「少女七竈~」は北海道の旭川で暮らす美少女川村七竈を主人公とする長編であり、高校二年生の冬、昨年も東京からやってきた梅木という女性が「アイドルになりたくはないですか」と再び彼女のことをスカウトする。そして、「ゴージャス」は「少女七竈~」で七竈のことをスカウトしていた梅木が「乃木坂れな」という十代のアイドルだった頃の話で「少女七竈~」の番外編に位置する作品だ。「少女七竈~」の舞台は平成、「ゴージャス」の舞台は昭和となっている。
 なお、以上の作品の中にはソロで活動する女性アイドルのみ登場するため今回の論文の中ではソロの女性アイドルについてのみ言及していくこととする。

第1章 アイドルから見る「アイドル」

 作品に登場するアイドルの紹介。

「A」
・A 2006年にスキャンダルで引退した元トップアイドル。物語当時の2050年代では老女であるが神のような力が未だ彼女にとりついているためこの国で50年間アイドルが消えたとされる。
・B アイドルの「Body」。老女である「アイドル」のAと接続され動く美少女の生きた死体。

「ゴージャス」
・乃木坂れな 昭和の後半、アイドル全盛期を生きた十代のアイドル。東北地方出身で引退した後はアイドルをスカウトする裏側に回る。本名、梅木美子。
・ライバル 乃木坂れなのライバルとして売り出されていた少女。男性アイドルと結婚し引退。

少女七竈と七人の可愛そうな大人
※本作にアイドルは登場しないのだが便宜上アイドルとしてスカウトされている川村七竈のことを紹介しておく
・川村七竈 北海道の旭川で祖父と二人で暮らす美少女。母親はあまり家に帰ってこず、結婚も認知もしていない。

 桜庭一樹作品に登場するアイドルに共通しているのは「美少女」であるということだ。しかしそれはあくまで第三者から見た事実であり、本人たちはむしろ「美少女」であることに冷ややかである。具体的に記述を引用すると、老女となったAはアイドル時代の自身を振り返り「理想の少女のわかりやすい雛形」であるとし、「いうまでもなく、わたくしも、わたくしたちのあおとをおうプロジェクトの仲間たちも、ほんとうの意味で“少女”だったことはいちどもない。」と続け「少女」であることすら否定している。
 れなも自分のレコードやグッズを「わたしが演じたラメの木偶」と形容し、七竈に至っては美しく生まれたことを「遺憾」であると語り、自分の顔を指して「呪い」と言う。そんな彼女たちがどうしてアイドルになった(なろうとした)のか。Aに関してはその記述がないのだが、れなと七竈は共通してアイドルになる目的を抱えている。それは、正にこの、呪いである「うつくしさ」を失うことだ。都会に出て、年を取り、生き始めるために彼女達はアイドルになった。
 つまり、彼女達アイドルにとって「アイドル」とは消費されることである。

第2章 消費者から見る「アイドル」

 作中に登場する消費者の紹介。

「A」
・P Paranoia。Psychokinesist。アイドルのBを運命の相手だとする十七歳の少年。 

少女七竈と七人の可愛そうな大人
・川村優奈 七竈の母親。かつて乃木坂れなのファンであり、自室の机にはブロマイドがしまわれている。

「ゴージャス」
・親衛隊 アイドルの狂信的なファンである若い男たちの集団。そのうちの一人はれなの隣の部屋に越してくる。

 この三作品の消費者をアイドルとの物理的距離が近い順番で並べると親衛隊、P、優奈である。しかしながら、心理的な距離の近さで並べると、P、優奈、親衛隊であるだろう。それは彼らの呼び方で判断できる。PはBのことを「B」と呼び、自分が知っているBもまた、自分のことを知っていると信じて疑わない。優奈はまるで同年代のともだちのようにれなのことを「あの子」と呼ぶ。しかし隣の部屋に引っ越しきた親衛隊の男は「れなちゃん」「君」とれなのことを呼び、決して自分から話しかけることはなかった。これらの差異は性別や年齢によるものでもあるだろうが、単純に、人の数だけアイドルの消費の仕方があるのだとすることも可能だ。
 彼ら消費者にとって「アイドル」とは運命の相手であり憧れのともだちであり年を取るのことのないバラの花である。

第3章 製作者から見る「アイドル」

 作品に登場する製作者の紹介。

「A」
・一文字 大手広告代理店であるトレンド社の社員。アイドルを復活させるためAに接触し取引をする。

少女七竈と七人の可愛そうな大人
・梅木美子 昭和の元トップアイドル。本当にうつくしい、歌って踊る、選ばれた少女を探して南から北上し七竈を見つけた。

「ゴージャス」
・マネージャー 乃木坂れなのマネージャー。

 元トップアイドルであった梅木を例外とするのならば、製作者達の目的は第一に「アイドル」という商品を売り、更に「アイドル」を利用して商品を売ることであるといえる。れなのマネージャーは、ライバルとのレコードの売り上げを比較しれなの卑しい目を指摘して「嘘でいい、もっと純真な目で歌えよ。もっと売れてみろよ。」と笑い、梅木も、七竈の回想の中で「おまえは幸いにして美しいから、ぜひ商品にならないか」と発言している。(しかしこれは七竈によって語られる梅木の言葉であるため七竈自身が「アイドル」を「商品」であると解釈しているともとれる。)
 一文字はアイドルを実際には目にしたことのない世代なりにアイドルを分析し「化け物のような“生きた広告塔”」「消費の女神」と部下に説明した上で「要するに、アイコンだったんだよ。」と締めくくった。この「アイコン」という単語は「A」のAによる独白である冒頭から繰り返し登場する言葉であるがこの単語の持つ意味などについては『4.考察・結論』で触れるとして、ここでは彼ら製作者にとって「アイドル」とは商品であるとまとめておく。

4.考察・結論

 まず『3.研究』のまとめをする。
 アイドル本人や製作者という裏方にとっての「アイドル」が消費されるべきものと共通していたのに対し、辞書で「アイドル」を引いたとき「偶像」という単語で定義されているのは消費者からの視点に近いものがあるのだろう。そしてこれは、消費者自身には自らがアイドルを消費しているという自覚がないということも示している。優奈はれなのブロマイドを机にしまったまま家を出てふらふらしているし、親衛隊の男はれなのレコードを残して隣の部屋からどこかへと去っていく。彼らにはきっと、そうなってもなお「消費」の自覚がない。これこそまさに少年がP、パラノイアたる所以である。どれだけ彼らに消費の自覚がなくとも、実際に消費者は商品を消費するがために消費者であるので、「アイドル」は消費され続ける。しかしそれはアイドルである彼女達の目的であり、様々な手段で商品が消費されることは製作者の目的でもあるのだ。
 つまり、消費者が消費者である限り、アイドルとは「消費される商品」であると定義づけられる。
 
 だが、ここでもう一つ「消費者が消費者でない場合」を仮定してみようと思う。これは「A」のなかで「アイドル」が「アイコン」であると繰り返し形容されていたがための仮定である。

・アイコン【icon】①コンピューターに与える指示・命令や文書・ファイルなどをわかりやすく記号化した図式。絵文字。②イコン。

・イコン【ikon(ドイツ)】①ギリシア正教会でまつるキリスト・聖母・聖徒・殉職者などの絵画。ビザンチン美術の一表現で、6世紀に始まる。ロシアで独特の発達をみ、ロシア‐イコンと称される。図像。②パースによる記号の3区分の一つ。形式が、その示す対象の内容と何らかの類似性を持つ記号。たとえば表意文字写像。アイコン。
広辞苑第六版 岩波書店より引用

 「A」の中にはアイドルのアイドル性を指して「アイコンの神」という言葉が使用されることもある。この場合のアイコンを、キリスト教徒が礼拝の対象とするイコンであると解釈するのであれば「アイコンの神」とは「神」ということになる。それを内に秘めたアイドルは正に「イコン」、すなわち「アイコン」というわけだ。ちなみに、「少女七竈~」と「ゴージャス」にもブロマイドとレコードという「イコン」の象徴のようなものが登場している。
 そしてこの場合、アイドルの消費者は消費者ではなく信者ということになる。つまり彼らは、アイドル達を「消費している」のではなく「信じている」のだ。
 消費者が消費者ではなく、信者である場合「アイドル」は「消費されるもの」ではなく「信じられるもの」であるのだが、親衛隊の男が隣の部屋から「君の声は、ぼくたちを勇気づけてくれるから」と言った時、れなは「ほんとうでしょうか。」「果たしてそれは、ほんとうでしょうか。」と、疑う。アイドルは、信者の信仰を自覚しない。彼女たちは消費されるためにアイドルをしているからだ。この構図は、実は消費者が消費者である場合と逆転しているものである。つまりここにも、アイドルと、取り巻く彼らの認識の差が生じているのだ。
 「アイドル」とは何かを定義するにはこの二つの差を考慮する必要がある。

 消費者と消費されるものである場合の認識の差、信者と信じられるものである場合の認識の差、それらすべて踏まえた上で「アイドル」を「商品」であり「アイコン」であると口にしている製作者の一文字は今回取り扱っている作品に登場する者の中で、最も正しく「アイドル」を認識している人物だろう。そんな彼の言葉の中から「アイドル」とは何かを述べているものを改めて引用し「アイドル」の再定義を試みよう。

①タレント
②すべてをこなす芸能人
③生きた広告塔
④消費の女神
⑤(生きた)アイコン
⑥“かわいい”という価値を持った、稀有な存在

 ①②は「アイドル」の具体的な活動内容についての言葉で、③④⑤は「アイドル」が存在することで巻き起こる現象を表現しているといえる。そして⑥は「アイドル」の条件だ。これらはすべて『3.研究』で引用してきた記述にも矛盾しない。

 以上のことから、私は結論として「アイドル」とは「社会に消費と信仰を巻き起こす芸能活動をしているかわいい存在」であると定義する。少々定義としては長いかもしれないが、多様な視点によって語られる「アイドル」は活動内容、生じる社会的な現象、条件のどれか一つに絞って定義することは非常に困難であるのだ。敢えて定義を活動内容に絞りかつての私の違和感に答えるのならば「アイドル」とは「あらゆる芸能活動をする存在」であると定義しよう。「商品」でもある彼女達が歌う歌は「アイドル」である彼女達のために作られた歌であるため、それを「アイドル」である彼女たちが「自分の歌」として歌うことは全くおかしなことではないということだ。

5.おわりに

参考文献

『じごくゆきっ』初版 集英社 桜庭一樹著 
少女七竈と七人の可愛そうな大人』第三版 桜庭一樹著 角川書店(角川文庫)
広辞苑』第六版 岩波書店 
『ジーニアス英和辞典』第五版 大修館書店


▽おまけ
 2017年夏に書いた課題の読書感想文。
 読んだのは桜庭一樹さんの「ゴージャス」(角川文庫「少女七竈と七人の可愛そうな大人」収録)

アイドルについて

 アイドルというもの。歌って踊って、子供用の甘口のカレールーのコマーシャルで子役と一緒にカレーを一口食べておいしい、と微笑む。「ゴージャス」を語る乃木坂れなはそんな、昭和の、十代のアイドルだった。
 ところで私にも四年ほど前からファンであるアイドルグループがいる。彼らはもう十代のアイドルではなく、今は平成で、多忙な五年で美貌をなくし巷に消えることもなかったのだが、私は「ゴージャス」を読んでいる間ずっと彼らのことを考えていた。私は彼らに会いに行ったことがない。彼らは、いつもテレビの向こう側、紙の上、スマートフォンの中で踊り、笑い、歌う。私、いや、私たちはそれを見て嬉しくなったり、泣きそうになったりする。
 私たちは、確かに彼らを消費している。
 私は何度も読んだはずの「ゴージャス」を今もう一度読み直し、はっきりとそのことを自覚した。
 彼らを消費している私たちが存在するように、乃木坂れなを消費する者も存在する。親衛隊と呼ばれる彼らは私よりもっとずっと近くで乃木坂れなを消費した。バイクに乗り、れなとマネージャーの乗った車と並走した挙句隣の部屋へ引っ越して来るような親衛隊に彼女は「わたしはあなたたちが好きだよ」と話しかける。私は、私が消費している彼らが私たちのことをどう思っているか知ることはない。だからこそ、れながベランダで隣の部屋の男へ向かってそう話しかけることは「救い」だと感じた。自分が消費されていることにれなは気付いている。むしろ、彼女は自分を、自分の美貌を消費して都会に紛れようとしている。彼女を消費していることに気が付いていないのは、きっと、親衛隊のほうなのだ。それでいて、彼女は親衛隊のことを好きだという。それは親衛隊にとって救いであり、私にとっても救いだったのだ。
 しかし、本来ならば、親衛隊はれなに声をかけられることは一生ないはずで、れなが親衛隊に対してどういう感情を持っているか、一生知ることはないのである。私たちと同じように。そして、私が私たちのことを彼らがどう認識しているか知ることが一生ないのは、その実、画面の向こうにいる彼らに限った話でもない。私は教室で一緒に授業を受ける隣の席のクラスメイトが私のことをどう認識しているか知らない。それに、例え彼女がいくら言葉を尽くして私のことをどう認識しているか話してくれたとしても、私はそれを正しく理解することはないだろうとも思うのだ。それは、逆の場合も同じだ。人間は、人間を理解することはない。見えるものがすべてで、された行動がすべてで、かけられた言葉がすべてだ。だからこそ、ベランダでれなが親衛隊に「あなたたちが好きだよ」と話しかけたこと。その事実だけがすべてなのだ。人間が、人間をどう認識しているか、百パーセント理解することなどないし、理解してもらうこともできない。私たちは目に見える事実を信じることしかできないのだ。
 私たちが消費している彼らに、私たちがどう認識されているか知ることがないのと同様に、私たちは彼らを全て知ることはできない。それは、例え親衛隊のように隣の部屋に住んでいたとしてもだ。れなが自分自身と逢いたがっていたように、れなが画面にうつる自分の卑しい瞳を見つめ続けたように、私は、彼らの全てを知ることはない。それは今の私にはとても寂しいことのように思えるが、せめて今の彼らが進んで私たちに消費されていることを選んでいてくれたら、と思っている。れなや、もう一人の語り主である七竃のように。今の私にとって、れなの言葉は、れなは救いだった。自らラメの木偶を演じた彼女は、年を取り、自分を見つけた。私が消費している彼らもそうであってくれたら、と私は確かに願っているのだ。いつかれなのレコードを置いて部屋を去っていった親衛隊のように、私も彼らを消費し尽くす、そんな日が来るとしても。