私事覚書

考察とか

朝からすき焼き食ってきました。

▽映画「羊の木」公開日一発目と舞台挨拶ライブ中継を視聴後、公式パンフレットを読み、予告編を確認し、雑誌(ピクトアップ2018 2・JMovieMagazine Vol.31・プラスアクト2018 2)のインタビューと対談を把握した上での私の感想を粗削りながら一旦まとめます。

※本編の内容、ネタバレを大量に含む上、映画を視聴していないと分からない部分も多いと思いますので観覧は自己責任でお願いします。


「人」と関わる

 「羊の木」を、私は予備知識のほとんどない状態で観に行った。この映画の存在を関ジャニ∞さんのサイトで知って以来、予告編も観ないようにして、雑誌を買ってもインタビューには目を通さないようにしていた。映像ものを観るのにはすごくエネルギーを使うのでなんでも観るというわけではないし、好きな人が出てるからという理由だけで行くことも作品に不誠実な気がして控えているのだが、なんとなく、作品タイトルを見て感じるものがあった。観に行こうと、すぐに決めた。決めたから、予告編を観る必要もあらすじを把握する必要もないと思ったし、実際映画を視聴後予告編を確認したところ、予告編を観ていたら作品に対する印象も変わっていただろうなという気持ちになった。結果として私は今、知らないことを選択してよかったと感じている。映画を観ている最中、私がずっと考えていたのは「人は人とどう関わって今を生きていくか」ということ。これは、「羊の木」は、そういう映画だと思った。

 初めて出会った「人」のことを、私は勿論何も知らない。その人が過去に何をしてきた人なのか、今何を考えているのか、知らない。分からない。当たり前のことだ。でも、じゃあその人がすべて洗いざらい話してくれたとして、私がその人のことすべて知り、わかることが出来るかというと絶対に、そんなことはない。この映画のなかではその過去が「殺人」という極端でわかりやすいものに置き換えられているだけで私たちはいつもそうだ。何も分からない。けれどそれはその人と関わることを諦める理由にはならない。この映画のなかで、クリーニング屋の店主と理髪店の店主、そして主人公月末の父親の姿がその証明だった。知らない、分からないまま元受刑者と接し、関わり、最終的に過去も含めて今のすべてを受け入れた。この三人と関わる元受刑者は救われた。特に、一度突き放した後でもう一度手を伸ばしたクリーニング屋の店主の姿は本当に、美しい。「好き」を諦めないことを選んだ太田の姿も強い。彼らが救われることができて本当によかった。人の持つ光を見せつけられてるような、私は嬉しかった。
 しかしそういった人の光のなかで、明確に救われなかった人もいる。杉山勝志と宮腰一郎。杉山は、ある意味救われようとすらしていなかったように見えるので自業自得のような気がするが、宮腰という男が救われなかったこと、私には少し辛いものがあった。

宮腰一郎という「人」

 彼は映画の時間のなかで唯一人を殺した。その罪は重い。現代社会では、人殺しは罪で、罰を受けなければならない。でも人はそれぞれ自分の価値観を持っていて、それにしたがって生きている。私だって、蚊を潰しても次の瞬間には平気で息をしているのだ。勿論蚊も殺せない人も一定数いる。そんな色々な人が存在する世界のなかで、たまたま彼は人を殺しても平気だった、というだけ。私には私なりの人を殺してはいけない理由があるけれど、現代社会でなぜ殺人が犯罪になるのはかというと“そう決まっているから”なのだと思う。なぜそうなのか、明確な理由なんて本当はどこにもない。価値観は人それぞれで共有できないから。彼だって、人殺しが犯罪になること、理解していなかったわけではないだろう。だからラストシーン、崖で月末に「許せないかもしれないけど、俺は俺にしかなれない」と言ったこと、本当に切なさを感じてしまう。その上、彼は最終的に“特に理由はないが昔からそうだったから決まっている”ルールの象徴のような、のろろ様に殺される。ルールを破ったものは、結局社会から罰を受けるしかないのだ。彼は救われなかった。月末は手を伸ばしたのに。社会から見捨てられたような、あるいは彼自身、既に社会を見捨てていたような、そんな印象を受けた。私には、それが悲しく思える。

「人」との距離

 個人的に少し気になったので、どの程度演出としての意図があるかは分からないが、月末と元受刑者の距離について触れておく。
(※記憶が曖昧で違ってる部分があるかも知れません)
 映画のはじめ、月末は元受刑者を一人一人車で迎えに行く。そのなかで月末が運転席、元受刑者が助手席に座っている映像があったのは福元、大野、宮腰。運転席と助手席に座っていたのは、映像のためかもしれないが、結果としてかなり距離が近くなる上、運転を人に任せるというのは一定の信頼が必要になる。福元はその後の映画のなかで月末を頼る素振りを見せるし、大野も月末に対して誠実に向かい合ってるような印象があった。宮腰はこのとき月末と打ち解けラストシーン間近では逆に宮腰の運転する車の助手席に月末が乗る映像もあるし、宮腰と文が付き合っていたとき、文が車の助手席にいた描写も印象的だった。
 それと、これも月末がそれぞれ彼らを向かいに行くときの映像のなかでだが食事をするシーンがある。同じテーブルに付くのは、福元、太田、宮腰。同じテーブルといっても、福元とは4人掛けのテーブルで斜めに向かい合って一緒にラーメンを食べ、太田だけパフェを食べるテーブルに月末は向かい合って座るだけで何も口にはせず、宮腰とはカウンター席で隣り合ってそれぞれ刺身とカレーを食べる。杉山もソフトクリームを食べる映像があるのだが、その時彼は一人で立ちながら、売店にいった月末を待っている。“生”に執着するようにラーメンをすする福元とゆっくりパフェを味わう太田の姿と、特にこだわりの無さそうにソフトクリームを食べてた杉山と、月末がすすめたからという理由で刺身を選んだであろう宮腰の姿は対照的だ。映画の展開を考えてもそれぞれ象徴的なシーンだったと思う。
 
 比較できて分かりやすいのは以上にあげたふたつの距離だったが、それ以外にも月末と父親の食事、大野による杉山への拒絶、宮腰と杉山の船のシーン、太田と月末の二度にわたる病院ロビーでの対峙、ラストシーンでの、月末の父親の病室や美容室での教え、大野と床屋の店主との自撮りなど、人と関わっていく際の距離というものを、考えさせる演出だった。

栗本清美が拾う「羊の木」

 映画のタイトルである「羊の木」について、本編ではほとんど触れられない。冒頭に「東タタール旅行記」からの引用が表示され、清掃業者として働く元受刑者の一人である栗本清美が海辺の清掃をしている際羊の木が描かれた皿が捨てられているのを見つけ持ち帰り、玄関の内側に飾る。それだけだ。パンフレットでもそれほど詳しく言及はされておらず私には、未だに「羊の木」が一体なんだったのか、確かな答えを見つけることができていない。「羊の木」を西欧人の、誤った東洋感だと解釈するなら、それは知ろうとしなければ何も知れないということになるのか。私たちは皆一人一人が狼で、他人から見たら得体の知れないものを食らいながら生きているということなのか。分からないが、分からないままでいいということにしておく。栗本も、わからない人だった。でも、それでいい。わからないままでも、関わることは出来る。受け入れることは出来るのだ。

 私は以上のように「羊の木」を受け止めた。

その他気になったこと

◇バンドシーン◇

 好きなシーン。単純に、映画のなかに音楽が流れることが好きだ。音楽を流すことは紙の上ではできない表現だから、そういった表現を映画のなかでやってくれることは嬉しいし喜びを感じる。それに、分かりやすさもある。音楽は人と関わるきっかけになるし、人と関わり続ける理由になってくれる。

◇自転車とバイク◇

 それぞれ、月末と文が乗っている。基本的に一人で乗る乗り物。車や船には自分以外の人を乗せられる。その上で、ラスト近く、たった一人でバイクに乗り崖へと走る文の姿は心強い。

◇公式パンフレット◇

 相田冬二さんのコラムがめちゃくちゃいい。あと助監督によるProduction Noteもいい。Storyは、大体映画観た人が買うんだからこんなにあらすじ長々とは要らないのではと思った。読み飛ばしていい箇所。関係者インタビューは、雑誌と内容が被ってる部分もありつつ他の人の映画の感想とも読めるので大体いつも面白く読んでる。田中さんのが面白かった。

◇漫画原作◇

 読もうかなとも思いつつ、公式パンフレットを読む限り人物造形、展開、エンディングを大幅にいじってあるそうなのでとりあえず未読のまま感想を書いておく。漫画や小説をそのままたった二時間の映画に変換することなんか不可能だし、私は必要性を感じないのでそれはそれでいいと思ってる。

◇舞台挨拶◇

 本編についてはあまり触れていなかったのでこの場で特に言及することはなし。吉田監督の「映画館には俳優を観に行ってる」という発言は興味深かった。
(タイトルの表現は舞台挨拶中に主演の錦戸亮さんが今作を観ることに対して消化に時間がかかる、朝からすき焼き食うようなもん等と発言していたことに由来)



△ここまで読んでくれた方がどれだけいるかわかりませんが、どうも有り難うございました。よかったら、貴方も「羊の木」を観て何を思ったか、何が印象に残ったのか、私にじゃなくてもいいので、どこかで発信してくれたら嬉しいです。私は、貴方を知りたい。よろしくお願いいたします。

2018.2.3.