私事覚書

君に今、伝えておきたいこと

世界で一番きれいな家族写真

GR8EST BABYのこと


 どうしよう、泣きそうだ。


 関ジャニ∞のベストアルバム「GR8EST」の発売日だった。私は学校から、いつもとは違うバスに乗って買いに行き重たいビニール袋をさげて家に帰った。暑かった。重かった。でも歩きながら、私は家にたどり着きたくないなぁと思っていた。きっと楽しみなものは、待ってる時間が一番楽しくて、辛いものは待ってる時間が一番辛い。私はこの日を2ヶ月ぐらい待ってた。4月と5月は楽しみなことが2つ3つぐらいしかなくて、ずっとこの日を楽しみに生きてた。だから家に帰ってもしばらくは一緒に買った雑誌を眺めながら過ごしてた。

 明日も学校だし、聴くのも、観るのももう少し先伸ばしにして、とりあえず全部開けるだけ開けよう、と思って開封し始めたのがさっき。

 今、私は、呆然としている。


 最高すぎる。


 関ジャニ∞は最高。


 ジャケットデザインの三種類どこにもメンバーの姿がなくて、いるのはGR8EST BABY だけ。


 GR8EST BABYの詳細は公式サイトにあるんでちょっと割愛するけど、私は、実は君のこと、関ジャニ∞なんだなって思ってる。

 赤ちゃんって、愛されるためにかわいい顔をしてるって話、聞いたことある? 私、それってめちゃくちゃアイドルだなって思うんだ。愛されるために、かわいくなる。愛される存在。愛すことを、許してくれる存在。それはもうほぼほぼ私にとってのアイドルだし、私にとってのアイドルは、ニアリーイコールで関ジャニ∞のことだ。勝手に大好きになって、勝手に救われることを許してくれる存在。

 私はきっと彼らの存在に、ここまで連れてきてもらった。

 だから私は彼らのこと、育ての親って勝手に呼んでるし、実際名前をもらってるし肯定してもらってるし手を差し出してもらってる。もう、そんなの、親じゃん。って思ってる。だからある意味では私自身もGR8EST BABYなのかもしれないって思う。でもやっぱりそれ以上にGR8EST BABYは関ジャニ∞そのものだ。彼らは何よりも君のことを大切に育ててきたんだろう。

 そんな君のことを、メンバーが囲んで、笑っている写真がある。

 これは別にCDジャケットの話じゃないけど、今の公式サイトとかで表示されてるから皆にもちょっと、見てほしい。

 あまりにもきれいなんだ。

 私にとっては世界で一番きれいな家族写真かもしれない。

 豪華盤を開くと、この写真が額縁におさまってるみたいになってる。本当に、何よりきれい。しばらくの間取り出せることに気づかないぐらいそれはきれいにおさまってた。

 初めて見たときからこの写真、ずっとめちゃくちゃかわいい! と思ってたけど、今はそれ以上にきれいだって思う。

 世界中の何よりも、君はきれい。

 君は間違いなく愛されてるよ。愛されてる。今まで愛されてきたし、これからも愛され続ける。だから君は一生赤ちゃんのままだろう、と私は思ってる。公式アプリで育てるとか、そういうことじゃなくって、君は愛される存在なんだ。君は一生、私にとってのアイドルだ。これからもどうか、大好きでいることを許してほしい。幸せを願うことを許してほしい。君の誕生を、祝うことを許してほしい。


 お誕生日おめでとう。

 君が君にとっての幸せを手にすることができますように。

 

 一秒も聴いてないし観てないんだけど、なんとか今日中に、それだけ、伝えておきたかった。

 これからよろしくね。大好きだよ。

桜庭一樹作品に見る「アイドル」

 以下の文は2017年12月に学校の授業で書いたこじらせ自由研究論文です。加筆修正はしていません。
 「A」(「じごくゆきっ」収録)「少女七竈と七人の可愛そうな大人」「ゴージャス」(角川文庫「少女七竈と七人の可愛そうな大人」収録)の内容に触れているのでその点については自己責任で観覧をよろしくお願いいたします。



0.はじめに

 今日、私達が「アイドル」を目にしない日はない、と断言していいほどアイドルの存在は現代社会に深く浸透している。しかし私はかつて、彼女達の存在に対して違和感を感じていた。なぜなら、アイドルが歌う歌は基本的に自分達で作った歌ではないからである。「歌」とは本来「自分」を表現するための作品であると考えている私にとって、自分で作った歌ではない歌を自分の歌として歌うその姿はどこか違和感があった。結局この違和感に対して、当時の私は「アイドル」は「歌手」ではないから歌う歌を自分で作る必要はないのだということにして自分を納得させた。そんな私が未練がましく再びアイドルについて考察しようとしているのはある本の、こんな文に出会ったからである。

「(前略)タレントだよ。少女の姿をした女優であり、歌手であり、司会者であり、ようするにすべてをこなす芸能人だ」
「それが、アイドルと呼ばれていたんですか?」

 アイドルは「歌手」であると定義づけている桜庭一樹著の「A」を読み、私はもう一度桜庭一樹作品の視点を借りて「アイドル」とは何かを考えたいと思った。

1.研究の目的

 特にアイドルに関する記述の多い桜庭一樹作品の「A」「少女七竈と七人の可愛そうな大人」「ゴージャス」を読み解き、「アイドル」とは何かを考察し定義する。

2.仮説

 消費者が「理想」とすれば活動内容に関わらず「アイドル」である。すなわち、「アイドル」とは「消費者の理想の人物」である。

3.研究

Ⅰ.「アイドル」という単語が持つ意味

 まず、辞書でアイドルがどう定義されているか確認する。

・アイドル【idol】①偶像。イドラ。②あこがれの対象者。人気者。特に、青少年の支持する若手タレント。
広辞苑第六版 岩波書店より引用
・idol①崇拝される人[物]。アイドル。②偶像。偶像神。邪神。
ジーニアス英和辞典第五版 大修館書店より引用
 辞書で「アイドル」という単語を引くと、「偶像」などといった抽象的な対象物として定義されていることに気付く。更に「偶像」の意味を調べると前述したのと同じ広辞苑では①木、石、土、金属などで作った像。②信仰の対象とされるもの。③伝統的、または絶対的な権威として崇拝・盲信の対象とされるもの。と定義されている。(イドラの和訳も偶像である)

Ⅱ.桜庭一樹作品中の記述を読み解く

 ここからは桜樹作品から「アイドル」について考察していく。

第0章 桜庭一樹作品の紹介

 今回の論文で扱う桜庭一樹作品は「A」「少女七竈と七人の可愛そうな大人」(以下「少女七竈~」と表記)「ゴージャス」の三作品である。

・A 
「SF Japan 2005 WINTER」(2005年)収録 徳間書店
「じごくゆきっ」(2017年)収録 集英社
少女七竈と七人の可愛そうな大人 
野生時代〇五年一〇月号」~「野生時代〇六年五月号」(2005~2006年)掲載 角川書店
少女七竈と七人の可愛そうな大人」(2006年)収録 角川書店
少女七竈と七人の可愛そうな大人」(2009年)収録 角川文庫
・ゴージャス
野生時代〇七年二月号」(2007年)掲載 角川書店
少女七竈と七人の可愛そうな大人」(2009年)収録 角川文庫

 「A」は「アイドル」のいない2050年代に再び「アイコンの神」がとりついて離れない元アイドルであるAと、若く美しい体を持つ生きた死体であるBを用いて大手広告代理店が「アイドル」を復活させようとする短編である。『0.はじめに』で触れたように私がアイドルについて考え直すきっかけになった作品であり、2005年と執筆されたのはこの三作品の中で一番早いが舞台を近未来に設定しており「アイドル」が存在しない世界の住人による「アイドル」に対する認識が非常に興味深く記述されている。
 「少女七竈~」は北海道の旭川で暮らす美少女川村七竈を主人公とする長編であり、高校二年生の冬、昨年も東京からやってきた梅木という女性が「アイドルになりたくはないですか」と再び彼女のことをスカウトする。そして、「ゴージャス」は「少女七竈~」で七竈のことをスカウトしていた梅木が「乃木坂れな」という十代のアイドルだった頃の話で「少女七竈~」の番外編に位置する作品だ。「少女七竈~」の舞台は平成、「ゴージャス」の舞台は昭和となっている。
 なお、以上の作品の中にはソロで活動する女性アイドルのみ登場するため今回の論文の中ではソロの女性アイドルについてのみ言及していくこととする。

第1章 アイドルから見る「アイドル」

 作品に登場するアイドルの紹介。

「A」
・A 2006年にスキャンダルで引退した元トップアイドル。物語当時の2050年代では老女であるが神のような力が未だ彼女にとりついているためこの国で50年間アイドルが消えたとされる。
・B アイドルの「Body」。老女である「アイドル」のAと接続され動く美少女の生きた死体。

「ゴージャス」
・乃木坂れな 昭和の後半、アイドル全盛期を生きた十代のアイドル。東北地方出身で引退した後はアイドルをスカウトする裏側に回る。本名、梅木美子。
・ライバル 乃木坂れなのライバルとして売り出されていた少女。男性アイドルと結婚し引退。

少女七竈と七人の可愛そうな大人
※本作にアイドルは登場しないのだが便宜上アイドルとしてスカウトされている川村七竈のことを紹介しておく
・川村七竈 北海道の旭川で祖父と二人で暮らす美少女。母親はあまり家に帰ってこず、結婚も認知もしていない。

 桜庭一樹作品に登場するアイドルに共通しているのは「美少女」であるということだ。しかしそれはあくまで第三者から見た事実であり、本人たちはむしろ「美少女」であることに冷ややかである。具体的に記述を引用すると、老女となったAはアイドル時代の自身を振り返り「理想の少女のわかりやすい雛形」であるとし、「いうまでもなく、わたくしも、わたくしたちのあおとをおうプロジェクトの仲間たちも、ほんとうの意味で“少女”だったことはいちどもない。」と続け「少女」であることすら否定している。
 れなも自分のレコードやグッズを「わたしが演じたラメの木偶」と形容し、七竈に至っては美しく生まれたことを「遺憾」であると語り、自分の顔を指して「呪い」と言う。そんな彼女たちがどうしてアイドルになった(なろうとした)のか。Aに関してはその記述がないのだが、れなと七竈は共通してアイドルになる目的を抱えている。それは、正にこの、呪いである「うつくしさ」を失うことだ。都会に出て、年を取り、生き始めるために彼女達はアイドルになった。
 つまり、彼女達アイドルにとって「アイドル」とは消費されることである。

第2章 消費者から見る「アイドル」

 作中に登場する消費者の紹介。

「A」
・P Paranoia。Psychokinesist。アイドルのBを運命の相手だとする十七歳の少年。 

少女七竈と七人の可愛そうな大人
・川村優奈 七竈の母親。かつて乃木坂れなのファンであり、自室の机にはブロマイドがしまわれている。

「ゴージャス」
・親衛隊 アイドルの狂信的なファンである若い男たちの集団。そのうちの一人はれなの隣の部屋に越してくる。

 この三作品の消費者をアイドルとの物理的距離が近い順番で並べると親衛隊、P、優奈である。しかしながら、心理的な距離の近さで並べると、P、優奈、親衛隊であるだろう。それは彼らの呼び方で判断できる。PはBのことを「B」と呼び、自分が知っているBもまた、自分のことを知っていると信じて疑わない。優奈はまるで同年代のともだちのようにれなのことを「あの子」と呼ぶ。しかし隣の部屋に引っ越しきた親衛隊の男は「れなちゃん」「君」とれなのことを呼び、決して自分から話しかけることはなかった。これらの差異は性別や年齢によるものでもあるだろうが、単純に、人の数だけアイドルの消費の仕方があるのだとすることも可能だ。
 彼ら消費者にとって「アイドル」とは運命の相手であり憧れのともだちであり年を取るのことのないバラの花である。

第3章 製作者から見る「アイドル」

 作品に登場する製作者の紹介。

「A」
・一文字 大手広告代理店であるトレンド社の社員。アイドルを復活させるためAに接触し取引をする。

少女七竈と七人の可愛そうな大人
・梅木美子 昭和の元トップアイドル。本当にうつくしい、歌って踊る、選ばれた少女を探して南から北上し七竈を見つけた。

「ゴージャス」
・マネージャー 乃木坂れなのマネージャー。

 元トップアイドルであった梅木を例外とするのならば、製作者達の目的は第一に「アイドル」という商品を売り、更に「アイドル」を利用して商品を売ることであるといえる。れなのマネージャーは、ライバルとのレコードの売り上げを比較しれなの卑しい目を指摘して「嘘でいい、もっと純真な目で歌えよ。もっと売れてみろよ。」と笑い、梅木も、七竈の回想の中で「おまえは幸いにして美しいから、ぜひ商品にならないか」と発言している。(しかしこれは七竈によって語られる梅木の言葉であるため七竈自身が「アイドル」を「商品」であると解釈しているともとれる。)
 一文字はアイドルを実際には目にしたことのない世代なりにアイドルを分析し「化け物のような“生きた広告塔”」「消費の女神」と部下に説明した上で「要するに、アイコンだったんだよ。」と締めくくった。この「アイコン」という単語は「A」のAによる独白である冒頭から繰り返し登場する言葉であるがこの単語の持つ意味などについては『4.考察・結論』で触れるとして、ここでは彼ら製作者にとって「アイドル」とは商品であるとまとめておく。

4.考察・結論

 まず『3.研究』のまとめをする。
 アイドル本人や製作者という裏方にとっての「アイドル」が消費されるべきものと共通していたのに対し、辞書で「アイドル」を引いたとき「偶像」という単語で定義されているのは消費者からの視点に近いものがあるのだろう。そしてこれは、消費者自身には自らがアイドルを消費しているという自覚がないということも示している。優奈はれなのブロマイドを机にしまったまま家を出てふらふらしているし、親衛隊の男はれなのレコードを残して隣の部屋からどこかへと去っていく。彼らにはきっと、そうなってもなお「消費」の自覚がない。これこそまさに少年がP、パラノイアたる所以である。どれだけ彼らに消費の自覚がなくとも、実際に消費者は商品を消費するがために消費者であるので、「アイドル」は消費され続ける。しかしそれはアイドルである彼女達の目的であり、様々な手段で商品が消費されることは製作者の目的でもあるのだ。
 つまり、消費者が消費者である限り、アイドルとは「消費される商品」であると定義づけられる。
 
 だが、ここでもう一つ「消費者が消費者でない場合」を仮定してみようと思う。これは「A」のなかで「アイドル」が「アイコン」であると繰り返し形容されていたがための仮定である。

・アイコン【icon】①コンピューターに与える指示・命令や文書・ファイルなどをわかりやすく記号化した図式。絵文字。②イコン。

・イコン【ikon(ドイツ)】①ギリシア正教会でまつるキリスト・聖母・聖徒・殉職者などの絵画。ビザンチン美術の一表現で、6世紀に始まる。ロシアで独特の発達をみ、ロシア‐イコンと称される。図像。②パースによる記号の3区分の一つ。形式が、その示す対象の内容と何らかの類似性を持つ記号。たとえば表意文字写像。アイコン。
広辞苑第六版 岩波書店より引用

 「A」の中にはアイドルのアイドル性を指して「アイコンの神」という言葉が使用されることもある。この場合のアイコンを、キリスト教徒が礼拝の対象とするイコンであると解釈するのであれば「アイコンの神」とは「神」ということになる。それを内に秘めたアイドルは正に「イコン」、すなわち「アイコン」というわけだ。ちなみに、「少女七竈~」と「ゴージャス」にもブロマイドとレコードという「イコン」の象徴のようなものが登場している。
 そしてこの場合、アイドルの消費者は消費者ではなく信者ということになる。つまり彼らは、アイドル達を「消費している」のではなく「信じている」のだ。
 消費者が消費者ではなく、信者である場合「アイドル」は「消費されるもの」ではなく「信じられるもの」であるのだが、親衛隊の男が隣の部屋から「君の声は、ぼくたちを勇気づけてくれるから」と言った時、れなは「ほんとうでしょうか。」「果たしてそれは、ほんとうでしょうか。」と、疑う。アイドルは、信者の信仰を自覚しない。彼女たちは消費されるためにアイドルをしているからだ。この構図は、実は消費者が消費者である場合と逆転しているものである。つまりここにも、アイドルと、取り巻く彼らの認識の差が生じているのだ。
 「アイドル」とは何かを定義するにはこの二つの差を考慮する必要がある。

 消費者と消費されるものである場合の認識の差、信者と信じられるものである場合の認識の差、それらすべて踏まえた上で「アイドル」を「商品」であり「アイコン」であると口にしている製作者の一文字は今回取り扱っている作品に登場する者の中で、最も正しく「アイドル」を認識している人物だろう。そんな彼の言葉の中から「アイドル」とは何かを述べているものを改めて引用し「アイドル」の再定義を試みよう。

①タレント
②すべてをこなす芸能人
③生きた広告塔
④消費の女神
⑤(生きた)アイコン
⑥“かわいい”という価値を持った、稀有な存在

 ①②は「アイドル」の具体的な活動内容についての言葉で、③④⑤は「アイドル」が存在することで巻き起こる現象を表現しているといえる。そして⑥は「アイドル」の条件だ。これらはすべて『3.研究』で引用してきた記述にも矛盾しない。

 以上のことから、私は結論として「アイドル」とは「社会に消費と信仰を巻き起こす芸能活動をしているかわいい存在」であると定義する。少々定義としては長いかもしれないが、多様な視点によって語られる「アイドル」は活動内容、生じる社会的な現象、条件のどれか一つに絞って定義することは非常に困難であるのだ。敢えて定義を活動内容に絞りかつての私の違和感に答えるのならば「アイドル」とは「あらゆる芸能活動をする存在」であると定義しよう。「商品」でもある彼女達が歌う歌は「アイドル」である彼女達のために作られた歌であるため、それを「アイドル」である彼女たちが「自分の歌」として歌うことは全くおかしなことではないということだ。

5.おわりに

参考文献

『じごくゆきっ』初版 集英社 桜庭一樹著 
少女七竈と七人の可愛そうな大人』第三版 桜庭一樹著 角川書店(角川文庫)
広辞苑』第六版 岩波書店 
『ジーニアス英和辞典』第五版 大修館書店


▽おまけ
 2017年夏に書いた課題の読書感想文。
 読んだのは桜庭一樹さんの「ゴージャス」(角川文庫「少女七竈と七人の可愛そうな大人」収録)

アイドルについて

 アイドルというもの。歌って踊って、子供用の甘口のカレールーのコマーシャルで子役と一緒にカレーを一口食べておいしい、と微笑む。「ゴージャス」を語る乃木坂れなはそんな、昭和の、十代のアイドルだった。
 ところで私にも四年ほど前からファンであるアイドルグループがいる。彼らはもう十代のアイドルではなく、今は平成で、多忙な五年で美貌をなくし巷に消えることもなかったのだが、私は「ゴージャス」を読んでいる間ずっと彼らのことを考えていた。私は彼らに会いに行ったことがない。彼らは、いつもテレビの向こう側、紙の上、スマートフォンの中で踊り、笑い、歌う。私、いや、私たちはそれを見て嬉しくなったり、泣きそうになったりする。
 私たちは、確かに彼らを消費している。
 私は何度も読んだはずの「ゴージャス」を今もう一度読み直し、はっきりとそのことを自覚した。
 彼らを消費している私たちが存在するように、乃木坂れなを消費する者も存在する。親衛隊と呼ばれる彼らは私よりもっとずっと近くで乃木坂れなを消費した。バイクに乗り、れなとマネージャーの乗った車と並走した挙句隣の部屋へ引っ越して来るような親衛隊に彼女は「わたしはあなたたちが好きだよ」と話しかける。私は、私が消費している彼らが私たちのことをどう思っているか知ることはない。だからこそ、れながベランダで隣の部屋の男へ向かってそう話しかけることは「救い」だと感じた。自分が消費されていることにれなは気付いている。むしろ、彼女は自分を、自分の美貌を消費して都会に紛れようとしている。彼女を消費していることに気が付いていないのは、きっと、親衛隊のほうなのだ。それでいて、彼女は親衛隊のことを好きだという。それは親衛隊にとって救いであり、私にとっても救いだったのだ。
 しかし、本来ならば、親衛隊はれなに声をかけられることは一生ないはずで、れなが親衛隊に対してどういう感情を持っているか、一生知ることはないのである。私たちと同じように。そして、私が私たちのことを彼らがどう認識しているか知ることが一生ないのは、その実、画面の向こうにいる彼らに限った話でもない。私は教室で一緒に授業を受ける隣の席のクラスメイトが私のことをどう認識しているか知らない。それに、例え彼女がいくら言葉を尽くして私のことをどう認識しているか話してくれたとしても、私はそれを正しく理解することはないだろうとも思うのだ。それは、逆の場合も同じだ。人間は、人間を理解することはない。見えるものがすべてで、された行動がすべてで、かけられた言葉がすべてだ。だからこそ、ベランダでれなが親衛隊に「あなたたちが好きだよ」と話しかけたこと。その事実だけがすべてなのだ。人間が、人間をどう認識しているか、百パーセント理解することなどないし、理解してもらうこともできない。私たちは目に見える事実を信じることしかできないのだ。
 私たちが消費している彼らに、私たちがどう認識されているか知ることがないのと同様に、私たちは彼らを全て知ることはできない。それは、例え親衛隊のように隣の部屋に住んでいたとしてもだ。れなが自分自身と逢いたがっていたように、れなが画面にうつる自分の卑しい瞳を見つめ続けたように、私は、彼らの全てを知ることはない。それは今の私にはとても寂しいことのように思えるが、せめて今の彼らが進んで私たちに消費されていることを選んでいてくれたら、と思っている。れなや、もう一人の語り主である七竃のように。今の私にとって、れなの言葉は、れなは救いだった。自らラメの木偶を演じた彼女は、年を取り、自分を見つけた。私が消費している彼らもそうであってくれたら、と私は確かに願っているのだ。いつかれなのレコードを置いて部屋を去っていった親衛隊のように、私も彼らを消費し尽くす、そんな日が来るとしても。

私にとっての関ジャニ∞ 追記7/3

f:id:mylights:20180422214721j:plain
追記 2018.7.3.

 サイトの文を読むだけで、それと番組での彼らの扱いを観るだけで、彼らがどれだけ世界に誠実に生きているか、人間に愛されているかということがあまりにも明白なので私が言うことは何もないです。人間が人間に全てを掲示してくれる必要はないと思うし、ちゃんと今の彼らは覚悟をもってステージに立ってくれて覚悟をもって卒業していくだろうから。私は今も彼ら絶対的に信頼していて、だからこそ振り向いてほしいとは思ってません。ただ彼らの人生を、彼らが生きてくれていたらいい。その気持ちはずっと変わりません。誰かの悪意に巻き込まれることなく、彼らが彼らの人生で彼らの幸せをつかみとれますように。大丈夫、大好きだよ。

以上、追記(会見のことに触れているのでこちらで追記しました)

▽ 

 これはまだ私がEighterを名乗れなかった頃の話なんだけど初めて関ジャニ∞のライブにいくことになった友達に、うちわ作るから手伝いに来て、タコマイのMVも観ていきなよって言われて遊びにいったことがある。結局私がした作業はパソコンで文字の印刷をするぐらいであとはもう一人の友達とDVD観ながらだらだらしてたんだけど、その子はその間もずっとなんか黄色い分厚い板みたいなの切ってて、私たちが帰るとき、ありがとうって言ってくれた。その時私たちが作ったうちわの文字は『変顔して!』で、そのことを聞かされてげらげら笑ってる私に、丸山さんが好きなその子は「これだったら、誰でもできるでしょ?」みたいなことを言った。超可愛い。好き。その時、これがメンバー全員に許されるアイドルグループって最高だし、ファンがそういうの作っちゃう感じも最高。信頼があるんだなって思った。めちゃくちゃいいなぁって、羨ましかった。私がEighterって名乗れなかったのは、ずっと、Eighterさんと関ジャニ∞さんの関係が大好きで、Eighterさんのことが大好きなのもあるなぁって一個前のブログ書いた後気づきました。

 今もそう。Eighterさんのことが大好き。

 まずはその話をします。

 『変顔して!』うちわを作ってたその子のこと、好きだなって気づいたのも最近だけどライブに行った後学校であったら「丸山さんにファンサしてもらった!」ってすごく嬉しそうにしてて、その時本当に、よかったなって思ったし私も嬉しかった。もう一人ライブに行った友達がいて、その子もずーっとライブの話を嬉しそうにしてくれた。その頃の私は、関ジャニ∞の存在を認識してたけど、大体、彼らの曲を聴いてるだけで、一人一人の名前と顔はいまいち一致してなくて、メンバーカラーでなんとなーく話を聞いてたから私の友達を笑顔にしてくれてありがとうって、そんな感じだった。(でもこのあとこの二人が行ったライブ「JUKEBOX」のDVD貸してもらって「宇宙に行ったライオン」の渋谷さんに心底惚れて、TSUTAYAに今までのアルバム借りに行って彼らの曲を、聴いて、聴いて、聴いて。今も聴いてる)そういえば最近まで、私自身ちょっと忘れてたことがあって、私が好きなもののこと好きって言えるようになったのは二年前にTwitterを始めてそこでいろんな人から大好きをもらえたからなんだけど、そもそもTwitter始めたのって、一人の大好きなEighterさんをフォローするためだった。その人とは唯一Twitter始める前から知り合えてて、今も相互フォローの関係でいてもらってる。勝手にこんなこと書いてすみません。読んでないかなー。多分読んでると踏んで書きます、今も大好きです。Twitterちらっと見ました。少なくとも、私は傷ついてません。こんなこといったらバカにしてるとか思われるかも知れないけど、すごく、可愛いって思ってました。相変わらず大好きです。(本当に不快だったらブロックしてください、でもできればリムーブがいいです)日曜日の夜、tl眺めてるだけでもいろんなEighterさんが目にはいった。なにも言わずにすぐにアカウント消した人、消しますっていってまだ消してない人、消そうか迷ってる人、どうしたらいいかわからない人。どうにか一旦気持ちの整理をつけてここで自分の話をしてくれる人もいた。泣いてる人、怒ってる人、笑ってる人。私の、こんなに狭い視界に入ってくるだけでこんだけいろんな人がいるんだから、本当に、いろんな人がいるんだろうなって思う。私は、そんな狭い視界でこの一週間Eighterさんのことを見てて、すごく可愛いって思った。関ジャニ∞は私の人生だった、青春だったって、叫んでる姿。自分の感情をぶちまけてる姿。本当に可愛い。大好き。ありがとう。最高! 言わなくてもいいかと思ってたけど私が人生に、これからに、大丈夫。大好きだよって言いたい“君”は渋谷さんだし、関ジャニ∞さんだし、Eighterさんだし、何より、君のことだよ。君の人生は、君だけのものだよ。君の感情は、君だけのものなんだよ! だから、君自身のことは他の誰かに代弁されてはいけない。きれいな言葉で飾らなくってもいい、気持ちの整理なんて、一生つけんな!!! 考え方なんていくらでも変えていい。とにかく、今の君のことは、ちゃんと君が表現して。文じゃなくっていいし、絵でも詩でも歌でも音楽でもダンスでもなんでもいいから。もし私の見えるところに置いてくれるんだったら私はそれを肯定したいって、思ってるよ。大丈夫、大好き。



 次に、関ジャニ∞さんと渋谷すばるさんの話をします。

 一個前のブログを書いた時、私は会見の様子のネット記事を読んだだけで、実際の映像は一秒も観てなかった。だから月曜日の朝、ニュース番組2つ録画してから学校に行った。家に帰ってきてご飯食べて、そのニュースを飛ばし飛ばし、それでも30分ぐらいかけて観た。私は、本当に、彼らが私を育ててくれたんだなって思った。大好き。渋谷さんがジャニーズをやめる決断をしたこと、6人が関ジャニ∞を続ける決断をしたこと。どちらも、すごく重いものだ。私は何があっても彼らのことを全力で肯定したい。彼らのことを見届けたい。そう思った。村上さん、未来の話をしてくれてありがとう。未来の話をするの、本当は私すごく怖い。だって何があるかわからないから。でもちゃんと関ジャニ∞は続いていくって、表現してくれて、嬉しかった。私の夢は自分のお金で関ジャニ∞ファンクラブに入ることと、関ジャニ∞さんのライブに行くこと。私の夢、叶うって、信じてるよ。横山さん、泣いてくれてありがとう。泣いてるのを否定してくれてありがとう。泣くことで自分を表現してくれて、ありがとう。丸山さん、自分の大好きをちゃんと表現してくれてありがとう。直接言うんじゃなくてメールで送ったって辺りが、可愛いなって思ったしなんか私と一緒だなって思いました。大倉さん、誰かの代弁じゃなくって、自分の感情を自分の言葉で表現してくれてありがとう。いろんな人が言ってたけど、その姿勢に救われた人がいっぱいいます。私は大倉さん、態度悪いって思ったことないしいつもその姿勢いいなって思ってるよ。安田さん、私は安田さんからのコメントを読める立場にないんだけど、ドクターストップであの場所にいないのとか、本当に、なんか、そういう感じが好きです。関ジャニ∞さんは、関ジャニ∞だけど、ちゃんと一人一人の人間の人生を生きてるんだなってことを感じさせてくれてありがとう。錦戸さん、錦戸さんの「門出」って表現が、私には「おめでとう」って言ってるみたいに聞こえた。私、渋谷さんに「おめでとう」って言いたかったんだけど言っていいのか迷ってたからなんかすごく勝手に嬉しくなった。「一人の男の人生を」って、言ったのを聞いたとき、私、本当に育てられたんだなぁって思った。すごくすごく勝手なんだけど、私、錦戸さんのこと、渋谷さんが結婚したら一番泣いて、でもちゃんと「おめでとう」って言ってくれそうだなって思ってて、なんかそういう感じがめちゃくちゃ大好きなんです。私は「エイトレンジャー」からの彼らのことしか知らないけど、特にこの二人の関係が大好き。だから自分のことより、錦戸さんのこと考えたときの方がすごく渋谷さんに繋いだ手を離さないでって、感情がわいた。「キングオブ男!」のあの手は、誰が握るの。バンド∞のフロントメンを、フロントマンにしないでよ。って思った。「9号車2番A席」を月曜日の朝、バスのなかで聴いてるときが私、一番泣きそうだった。今までの曲を今の関ジャニ∞に重ねることはなんか違うかな、私は彼らのこれからの曲に彼らのこれからを重ねたいなって思って、あんまりそういう感じで聴いてはなかったんだけど「9号車2番A席」の、「もったいないなぁ」って錦戸さんの声が、今の渋谷さんに言ってるみたいに聞こえた。もったいないなぁ。私も、そう思うよ。渋谷さんの肩書き“関ジャニ∞のメインボーカル”は間違いなく、6人が渋谷さんのためだけに掴みとったものだよ。そもそも私はアイドルのこと知らないし、ずっと、なんでアイドルって歌うんだろって思ってた。歌って、自分の伝えたいことを表現するための方法でしかないのに他の人が作った歌を歌ってて、それで自分の歌、って。なんでだろって思ってた。今はいろいろ考えて、その歌はそのアイドルのための歌だからアイドルが自分の歌って口にして、歌ってていいんだなって思ってるけど、そんな当時の私にとって関ジャニ∞さんって、アイドルだけど自分で作詞しちゃうし作曲しちゃうし、ライブとか音楽番組で演奏もしちゃう。最高なアイドルだった。最近ではCDでも自分達で演奏した音を収録してくれる。ほんとに最高。さっき書いたけど私が彼らに心底惚れたのはライブ「JUKEBOX」の「宇宙に行ったライオン」で、バンド演奏する彼らだった。自分の音楽を、自分で表現する彼らだった。そこにある責任感、とか、今でも絶対的に信頼をおいてます。それでね、その関ジャニ∞の音楽は、きっと渋谷さんのためにあったんじゃないかなって思う。それを、置いていってしまうんだねって思うし、彼のためのものだったのに、彼を一人で行かせるんだね、とも思う。繋いだ手を離さないでよ。でも、6人に、まだここにいるって決めてくれてありがとうって、確かに思うんだ。だから私もまだここにいる。

 私の人生には関ジャニ∞の音楽が必要だったし、今では、関ジャニ∞が必要。私にとっての関ジャニ∞は7人だけど、これからの、6人の関ジャニ∞がどんな姿を見せてくれるのか、ちゃんと見届けます。関ジャニ∞を繋いでくれて、本当にありがとう。錦戸さんのことも、なんかいろいろ書いちゃったけど会見の映像で、会場に入ってくる時渋谷さんの前を歩く彼のことを思い出すと大丈夫って、思える。関ジャニ∞はフィクションじゃないけど、あの時、ああもう錦戸さんは、渋谷さんの前を歩けるんだなって、思えたんだ。

 そして私の人生に関ジャニ∞の音楽が、関ジャニ∞が必要だったように、これからさきの未来にも関ジャニ∞と、そして渋谷すばるを必要とする人は絶対、いっぱいいる。

 だから、繋いだ手を離しても、今までを全部その腕に抱えて、その人たちのところまで、遠くへ、遠くへ、行ってほしい。私は、彼らが遠くへいくその背中に全力で大丈夫と大好きを叫んで、少しでも彼らに恩返しがしたい。ここまで来てくれてありがとう。振り向かないでね。私は勝手に君のために生きるし、君も勝手に、君のために生きて。大丈夫、大好きだよ。





 あとこれはちょっと余談なんだけど気づいたことがあるので聞いてください。私、渋谷さんがやりたいのって「音楽」というより、「歌」なんじゃないかなぁって思ってて、「歌」って、わりと「言葉」じゃん。日本語の通じない海外に行って、渋谷さんのやりたいことができるんかいって思ったけど、よくよく考えたら、渋谷さんが話すのって、日本語って言うより関西弁だなって気づいてまあ大丈夫かってなりました。英語大丈夫かって前に、そもそも日本語すらそんなにちゃんと喋れてなかった。私も、普通に会話ができる程度には標準語話せるけど九州生まれ九州育ちで、それ方言だよって指摘されたときじゃあ標準語でなんて言うんだってのがわからないことがあるので、方言って、結構異国語だなって、思います。私からしたら東京だって十分異国だよ。うまかっちゃんって何、とか言われちゃうし。東京でラーメン頼んだら醤油ラーメン出てきてびっくりした。私は小学生の頃まで醤油ラーメンの存在をいまいちちゃんと認識してませんでしたよ。大阪から飛び出して、東京という異国でこれだけ立派な姿を見せてくれた彼なら、日本を飛び出しても、大丈夫かなぁと思います。どうなるんだろうって、面白がってる自分もいる。うん、楽しみです。信頼してるから。彼のこれからを、ちゃんと見届けます。大丈夫、大好き。







▽これから先は本当にすごくすごく個人的な話で、不謹慎な話もするので、そういうことを理解した上で読んでください。読まなくてもいいです。下の文章も、全部本当だけど、今までの文章も、ちゃんと、全部本当なので。




 それでもし、よかったら、貴方のことを本当の意味で傷つけたいだなんて考えてる人は、この世界のどこにもいないってこと、覚えておいてください。






























 一週間たった。一週間。長かった。まだご飯は半分ぐらい食べたら美味しくなくなるし、渋谷さんがジャニーズ事務所をやめることを考えるとお腹と胸のまんなか辺りがぐるぐるする。気持ち悪くなる。でも私はこの一週間、ちゃんと学校に行った。私の生活を続けた。先週日曜日の12時に公式サイトを更新して、お知らせを確認して、ブログを書いて、それでも、時間は止まらない。明日が来ることを、生活は続いていくことを私は知っていたから。

 二年前、私は母親の車のなかで朝を迎えたことがある。家族全員で。もうこれ以上の地震は起きないだろうって思ってたのに、それは起きて、家からでて車のなかで一晩過ごした。その時、本当に、何があっても明日はくるんだなって思った。それは希望だったし、絶望でもあった。高校一年生になったばかりの私はもう新しい友達とかできる気がしなくって、これからの高校生活不安しかなくて、本当に明日世界が滅んでくれたらいいのにって思ってた。でも明日は来た。家のなか、結構ぐちゃぐちゃなのに。私は父親の大切なCDの山を踏みつけたのに。それはもうもとに戻らない。不思議な感じがした。それからしばらくして、私たちはまた家で眠れるようになって、一週間たって、一ヶ月たって、一年たって、二年たった。明日は来るって、私はあの時知ってしまった。だからこの日曜日を越えて、明日は来るってことも、わかった。生活は続いていく。私には、私の生活がある。それを、明日からも生きていくって覚悟をした。

 7人の関ジャニ∞を忘れるのが、6人の関ジャニ∞に慣れるのが怖いという気持ち。わかるよ。でも、時間は止まらないし、明日は来るんだ。世界は続いていく。それは、変えられない。私たちは、絶対にいつか、過去を忘れる。けど過去がなくなる訳じゃないし、明日も続いていく世界は今日までの延長線でしかない。だから、大丈夫だよって言いたい。無責任かもしれない、無神経かもしれない。それでもいい。私は、絶対大丈夫って、何度でも言うよ。時間は流れていくばかりで、いつまでも過去を覚えておくのは本当に難しいから、人は文章とか、絵とか詩とか歌とか音楽とかダンスとか、そういう表現方法を作り出したんだと思う。そういうものを使って、少しでも今の自分を残しておくと絶対に、未来のためになるって思うし、実際そういう人がいて本当に心強い。大丈夫だよ。絶対大丈夫。これから先、6人の関ジャニ∞しか知らないEighterさんが生まれたら、それは関ジャニ∞さんがすごくすごく頑張ったってことだろうし、渋谷すばるのファンが生まれたら、それは渋谷さんがすごくすごく頑張ったってことなんだ。私はその時彼らを誇りに思いたいし、新しい仲間たちを祝福したいって、思う。明日は来るよ。それはどうしようもない事実で、私たちは、それぞれの場所でそれぞれに明日を迎えることしかできない。だからせめて私はこの場所から、誰も否定されずに明日を迎えられるように、祈ってます。明日が来ても、大丈夫だよ。



 それとこれは本当に不謹慎な話でしようかどうしようか本当に迷ったけど、折角なので、します。皆さんは途中でいやになったら、やめていいです。無理しないでください。


 私は今年の6月6日が来たら18歳になるんですけどその時、「人生の折り返し地点に来ました」って言おうって思ってました。これは私の記憶が正しければ安田さんが30歳の誕生日の時そういう感じのことを言ったのが、なんかいいなって思ってて。(7/3追記 確認したら22歳のときっぽいです。すみません。)まあ面白いなって思ってたんです。60歳までしか生きるつもりないんかいって思ったけど、まあ、人間っていつか死ぬし。しかも結構あっさり死ぬし。当たり前の事実としてそれは私たちの足元に転がってるわけで。彼らもいつか死ぬんだろうなって、何度も考えたことがあります。そのたびに彼らがいない世界で生きていく自信ないなって思って、じゃあうまいこと30過ぎぐらいで死ねんかなーってずっと思ってた。だから18で、人生の折り返し。

 私、36ぐらいで死ねたらいいなって思ってた。

 でも、私の、大好きな人は36で新しいことを始めるって決めた。

 こんなむちゃくちゃな背中の押し方が、押され方があるかいって思う。でも、多分渋谷さんがむちゃくちゃに振り回したその手は、確かに私の背中にぶち当たった。私は背中を押されてしまった。本当にむちゃくちゃで乱暴。生きるしかなくなっちゃったじゃん。そもそもどうせいつか世界滅びるし、私たちの価値とか、意味とか、全部なくなる日が来るんだから、私は楽しかった記憶をくれた彼らと、大好きな人と大切な人に自分の力で恩返しできたらもう死んでいいと思ってた。多分、そんなに時間かからない、ほんとに、30そこそこまで生きてたら十分かなって思うしそんなに長生きしてもやることなさそうだし。彼らの寿命とか、まじで知りたくない。でも彼がとりあえずあと36年は生きるつもりでいるんだら、私も生きなきゃって、思った。半年ぐらい前かな、もう頑張らないって宣言して、頑張らなくてもそこそこ生きていけるってことを発見したけど、まあ、仕方がねぇな、もう一回、頑張ってみるかって思った。これからも、別に頑張らなくてもいいよって言うとは思うけど、私は頑張るから、皆も、ほどほどに頑張って。応援してます。

 ここまで読んでくれて、貴方の時間を私にくれて本当にありがとう。何か一言でも、読んでよかったって思える部分があったなら嬉しいです。絶対大丈夫、大好きだよ! それでは

追記(コメントにお返事したかったんですけどやり方がわからないのでここに書きます)
 はじめまして、私もだいすきなEighterさんの一人として見られたことを本当に嬉しく思います。そして少しでも貴方を救う部分があるのなら、それはきっと貴方のために書いた文章です。どうぞ遠慮なくお受け取りくださいね。反応を返していただき本当にありがとうございます!

君の人生に、これからに、大丈夫。大好きだよ。って言いたいだけ。

 すごくすごく個人的な、私の話をするね。私、ファンクラブに入ってないし、ライブにも行ったことないんけど、関ジャニ∞さんが、大好き。はじめて彼らを認識したのは映画「エイトレンジャー」を観に行ったときで、主題歌の「ER」がいいな、って思って、数日後TSUTAYAで「8EST」を借りた。ちょうどその頃ずっと仲のよかった友達もEighterさんになって、更に中学校で新しくできた友達もEighterさんで、彼らはずっと友達との共通言語で私はずっと彼らの音楽を聴いていた。ほとんど、音楽だけを聴いていた。こんなこと言うもんじゃないかも知れないんだけど、私、アイドルのことなんにも知らない。今も、そうだなって意識は強いけど当時はもっとだった。だからあんまり、ライブとかmvにも興味なくて、バライティーとかドラマとかもちゃんと観たりはしてなかった。そんな私だったけど友達はずっとCD貸してくれたりライブDVD貸してくれたりして、「ER2」からは自分で通常盤CDを買い続けてる。彼らの音楽を聴いてる。なんか、そんな感じだったから自分のことEighterって名乗れなかった。Eighterが大切な、大切な名前だってことは当時の私みたいなやつからでもすごくわかる。だから、私は名乗れないなって、思ってた。何かを好きになることは、きっとそんなに難しいことじゃないかも知れないけど、世界に向かって好きなもののことを好き、っていうことが私にはすごく難しかった。自分に自信がなかったから。でも、最近はちゃんと関ジャニ∞さんのことが好き、渋谷すばるさんのことが好き、って言えるようになった。リビングで堂々と音楽番組を繰り返し観れるし、関ジャニ∞さんの話をするようにTwitterのアカウントを作ったりもした。一昨日かな、ジャニオタってことが発覚した友達に「私関ジャニ∞さんが好き」って言ったら「Eighterさん?」って聞かれて、「うん」って、言えたんだ。本当に嬉しかった。私、ファンクラブに入ってない。ライブにも行ったことないけど、Eighterだよ。って、言えたんだ。
 もちろん、それにはこの一年ぐらいで私の彼らに対する姿勢が変わったって言うのもある。きっかけは友達にずーっと借りっぱなしだった「関ジャニ∞の元気が出るLIVE!!」のライブDVDを観たこと。このライブDVDに関しては皆さん一人一人に思いがあるでしょうから、私も私の感想を言います。私は、とんでもない人とであったんだなって、思った。大倉忠義さんがいなかったこと、倉子がいなかったことは本当に寂しかったけど。渋谷さんが8人でも7人でも6人でも、って。これが、関ジャニ∞ですって言ったこと。それは、すごいことだと思った。すごいことなんだよ。本当に尊敬する。きっと、彼はすごく“アイドル”のこと考えてるって気がする。メトロックで「関ジャニ∞っていうアイドルグループやってます!」って挨拶してくれるし、2018年2月号のviviのインタビューで「自分らがアイドルであるという自覚は常にありますよ。アイドルの定義? なんでもやるのがアイドルじゃないですか」って答えてくれた。私は、アイドルを知らない。でも、きっとだからこそ、アイドルに対して勝手に私たちが好きになって勝手に救われてくれることを許してくれる世界で最も尊い職業なんだという意識がすごくある。彼らを消費している自覚がある。だから彼らがそうやって“アイドル”をやってることに私は救われてた。大体こういうことに気づいたのが、このライブDVDを観たときだったんだ。私は、どうにも両親に育てられたという感覚が薄くって、母親も認めてる育ての母であるピアノの先生、人間に必要なことを教えてくれた英会話の先生をはじめ今までであったたくさん人や本や音楽や映画に育てて貰ってる意識があったんだけど、ほんと、∞さんにかなり人格をつくってもらったんだなって気づいた。今まで生きてこれたのは、関ジャニ∞さんがどこかで関ジャニ∞をしてたからだなって、自覚した。で、ちゃんと向き合わなきゃと思って、ちゃんと公式サイトをチェックするようになった。ファンクラブにも入りたいし、ライブにもいきたいって思うようになった。でも私はまだ自立できてないし、今ファンクラブに入ってもそれは自分で稼いだお金じゃないって思ったら、それは嫌だなって気持ちがあった。関ジャニ∞ファンクラブも、すごくすごく大切なものだってこと、ちゃんとわかるから。自分のはじめて稼いだお金で関ジャニ∞ファンクラブに入ることと、自分の稼いだお金でライブに行くことは私の夢のひとつになった。本当は、私が彼らに心底惚れた「宇宙に行ったライオン」も生で聴きたいんだけど、それは、もう、叶わないのかな。その事実はすごく淋しい。



 私は関ジャニ∞さんがアイドルをやってることに救われてる自覚があるんだけど、本当は、私、彼らに救われたいわけじゃない。彼らに私を救おうなんて、思ってほしくない。私は、彼らに、彼らの人生を生きていってほしいだけなんだ。

 彼らが、この世界のどこかで今日も生きてるって、その事実だけで、もう十分ってぐらい私、もう、救われてる。そんな自覚がある。明日自分が死んでもいいぐらい。だからかな、一昨日家に帰ってきてすぐ母親から脱退の噂を聞いたときよりちゃんと公式から発表があった今の方が落ち着いてる。渋谷さんは“アイドル”を辞める選択をした。きっともう、彼は“なんでも”はやらないんだろうな、と思う。でも、彼らの人生だからね。これは、諦めじゃない。私は、私を肯定してくれた彼らを肯定したいだけなんだ。これから先、何があっても彼らを肯定したい。彼らも、全力で、彼らのことを肯定してほしい。謝らなくていい。振り向かなくていいよ。私に、これからもずっとその背中に向かって大好きを、ありがとうを叫ばせてほしい。彼らが安心して私たちに背中を向けていてくれる限り、私は、この生きづらい世界で生きていけるんだ。

 君に幸せでいてほしいって、私の気持ちは、これからもずっと本当のつもりだよ。

 

 私、ちゃんと好きなものに好きって言えるようになった。その事実が今すごく嬉しい。関ジャニ∞さんが、渋谷すばるさんが、好き。大好き! これからもずーっと大好き! 大好き! 大好き! 大好き! 私はEighterです! 名前をくれてありがとう! 私を、救ってくれて、育ててくれて本当にありがとう! 本当はそれ以上に、言うことなんかないんだと思う。大丈夫。大好きだよ。それだけ。絶対大丈夫。大丈夫だよ。無責任かも知れない。でも、一人ぐらい、この世界で無責任に大丈夫を連呼する人間がいてもいいかもって思ったんだ。私、アイドルのこともジャニーズのことも全然知らないけど、関ジャニ∞さんは私にとって絶対的に大好きな存在なんだ。何かと比べることなんかしたくない。いつかちゃんと、恩返しさせてね。人生を切り売りしてくれる彼らに、私は勝手に、私の人生でもって恩を返します。
 



 今、一昨日とか、ライブDVD観た日の日記とか読み返しながらこの文章打ってるんだけど、本当は、一昨日の夜から今日の朝までずっと、どうしようって思ってた。どうしよう、私の夢、叶わないじゃんって、思ってた。あくまで噂の段階だったからそういうこと考えるのもよくないなとは思いつつもずっと不安で、何度も何度も公式サイトを更新してた。でも、私、今泣いてない。午前中自分の書いた文章とか読み返して、そうだね、って思って気持ちの整理ができたんだと思う。今皆すごく不安だよね、私も不安。渋谷さんのいない関ジャニ∞は、だって、ほんとにイメージできないもん。ずっと「関ジャニ∞」を名乗ってくれるって、思ってた。途中参加の私ですらこうなんだから、私より、もっといろんな思いがいっぱいある人もいること、知ってます。だからこれは浅はかな提案かもしれないけど、その思いを何らかの形で残しておいた方がいいと思う。私はもともと関ジャニ∞さんに関していつかちゃんと書いておきたいなと思ってて、メモもあったから今こうしてブログ書いてるけど、それこそ、Twitterとか日記とかでいい。詩でも、絵でもいい。記録は、案外未来の自分を救ってくれる。それは過去の事実だから。誰かに見せなくってもいい。残しといて。絶対にその事実は、未来の自分を救ってくれるはず。
 私の個人的な話にここまで付き合ってくれてありがとう。いつかしようと思ってた関ジャニ∞さんの話が、こんな形になったのは私自身すごく驚いてるけど、最後にもう一回、言っておくね。大丈夫。大好きだよ。

2015年の日記

▽昨日「羊の木」を観に行きネタバレ感想を一個前のブログ記事で書いていますが、実は、あれを書き終えて自分で読み返しながらなぜか「味園ユニバース」のことを思い出していました。

※「味園ユニバース」「羊の木」の内容に触れており、ネタバレも多いです。観覧は自己責任でお願いいたします。

味園ユニバース

 2015年2月に公開したこの映画を、私は“渋谷すばるさんが主演だから”という理由で観に行った。浅はかだった。私は、作品のエネルギーを消化しきれずに数日間具合が悪くなった。それ以来、怖くて一度も観れていない。ブルーレイの円盤は自室にあるにも関わらず、だ。でもふとあることに思い出す作品だし、今回「羊の木」を観て、買ってあった雑誌のインタビューや対談などを読んでいるとこの二作は、対局に位置するのではないかという気分になった。更に、色々考えた。そのきっかけとなった、2015年の自分の日記をまずはほぼ原文そのまま掲載する。

2015年3月29日(日)

 しょっぱなからやられた……。
 もう、なんか、正直最初から最後までずっと辛かった。
 音楽のシーンは、映画館全体に、音が響いて、震えてた。
 感じたのは、どストレートな不安定さ。ずっと不安定だった。でも、生きてるんだったら皆そうだ。安定なんかどこにもない。
 最後のライブをもう一度みたい。
 途中参加の私がこれを観ることができて本当にありがたい。出会えてよかった。
 ただ映像ものはどうしてもエネルギーつかうな……食欲も消えてしまった。しばらく放心状態だった。
 まだなんか消化しきれてない感じ。
 パンフレットももったいなくてまだ全部読めてないし。
 ああ、でも、いいものを観た。
 映画最高でした。本当にありがとう。

2015年3月30日(月)

 味園ユニバース
 一日たってやっと消化できたって感じする。
 やっと、「よかった」と思える。
 もう一度観たいけど、……観れないな、これは。
 でも最後のライブはもう一度観たい。聴きたい。
 ああ、でも、これは引きずるなー。本当に。
 なんか、どうしようもなく大きなエネルギーのかたまりをドーンっと見せつけられたような感じ。
 だって、あそこにいたの「ポチ男」だったもん。
 でも「渋谷すばる」でもあるのかもしれない。
 だめだ消化できてない。
 わかんない。全然、わかんない。

2015年3月31日(火)

 「味園ユニバース」は“渋谷さんの映画”じゃなくて“ポチ男の人生”として観に行かないとぶちのめされる。
 もう一回行きたいな。
 あそこで歌っていたのは、いったい、誰だったのか?

2015年4月3日(金)

 やっとこさパンフレットを読み終わる。
 「味園ユニバース
 どうなんですか?
 なんだろう、この、もやもやした感じっていうかなんていうか。
 ものすごくスケールの大きな事件が起きたわけじゃなくて、すべて最悪な方にすっころんでもわりとそれはそれでおさまりそうな世界とか人なんだけど、人が人を必死に繋ぎとめようとしている。

 

味園ユニバース」と「羊の木」

 この日記のどこに引っ掛かったのか。ひとつ目は、私の映画に対する姿勢の違いだ。前回のブログに記述があるように私は基本、出演者を動機に映画やドラマを観ることを控えている。しかし「味園ユニバース」は日記で「途中参加の私」という言葉があるし、ブログの冒頭に書いた通り渋谷さんを視聴の動機にした。それは浅はかではあったが、今は、それでよかったと思っている。あれは確かに“ポチ男の人生”だったけど、“渋谷すばるのための映画”でもあったから。「途中参加の私」で観に行く価値のある作品だった。その点、「羊の木」は“錦戸亮のための映画”ではなかった。(私がこの作品を知ったのは関ジャニ∞さんのサイトだったし、観に行く動機に錦戸さんが主演だからという理由が全く入っていなかったかというとそうではないが)「羊の木」のなかで錦戸さんが演じる「月末一」は“普通の人”だ。公式パンフレットや、雑誌のインタビューで語られているが月末はひたすら受け手に徹している。月末が受け手の人ならば、ポチ男は明らかに攻め手の人だろう。作品の在り方として、この二作は決定的に異なる。しかし本編の内容としては寧ろ似ているのではないかと思った。これが引っ掛かった点二つ目だ。
 
 なにしろ3年前に観てから一度も観れていないので自身の記憶も微妙だったが、日記を読み返していて、気づいた。予感は「羊の木」のなかでもあった。月末が大野を迎えるシーン。大野だけは、唯一刑務所から出てくるところを月末も見ている。私はこのシーンを観てすぐ「味園ユニバース」の冒頭を思い出した。忘れられない、今でもあの冒頭ははっきりと思い出せる。衝撃だったのだ。その後黒い車が追いかけてくるのも含めて、私は、(ああ、味園ユニバースで観たことがある)と思っていた。異論があるかもしれないが、私は今、ポチ男と大野は同じだと思っている。ポチ男は記憶をなくして、大野は国家企画として、それぞれ過去を知らせないまま人と関わる。そして、過去を暴き、一度は去っていく。でも、もう一度、もう一度、二人は、手を引かれる。カスミと、クリーニング屋の店主は彼らを、繋ぎとめようとしてくれる。救いだ。私は何度か教会に行く機会があり、その日はじめて出会った人から神に祈ってもらった経験があるし、私自身よく人のために祈るが、それでも、人を救うのは基本的に人だと思っている。「羊の木」にはのろろ様という守り神が登場し最後はルールを破った宮腰を海に沈める。それを超自然的なものによる「俺にしかなれない」宮腰への“救い”だと捉えることもできるが、私は、しかし、本当に宮腰を救うことができたのは月末だったと思っている。彼は、殺されかけてもなお、宮腰へ手を伸ばす。ふたりが友だちだったのかという点には正直疑問も残るが、それでも月末は確かに宮腰を救おうとしていた。結果として救いきれず、彼は日常に戻っていくが、あの時彼が手を伸ばしたという事実が私の胸には残っている。
 救われた人も、救われなかった人も確かに存在するが人を救うことは“できる”のだ。それは、三年という年月を跨いで二つの映画から共通して私が感じたことだ。「味園ユニバース」と「羊の木」、対照的な位置にある作品ながら、本質的なところでは同じなのではないか。私はそう感じたということをここにこうして残しておく。


△「味園ユニバース」「羊の木」非常に重い映画です。私は関ジャニ∞さんを取り巻く流れのなかでこの二作に出会いましたが、きっとそういう縁がなければ一生観ることはなかったと思いますし、軽率に人にすすめられる作品でもないです。でも、よかった。出会えて、彼らと関わることができてよかった。「味園ユニバース」は本当に一度観たっきりなので近いうちにもう一度、なんとか踏ん張って観たいと思います。またまた粗削りな文章ながらこの辺で。ここまで読んでいただきありがとうございました。

2018.2.4.

朝からすき焼き食ってきました。

▽映画「羊の木」公開日一発目と舞台挨拶ライブ中継を視聴後、公式パンフレットを読み、予告編を確認し、雑誌(ピクトアップ2018 2・JMovieMagazine Vol.31・プラスアクト2018 2)のインタビューと対談を把握した上での私の感想を粗削りながら一旦まとめます。

※本編の内容、ネタバレを大量に含む上、映画を視聴していないと分からない部分も多いと思いますので観覧は自己責任でお願いします。


「人」と関わる

 「羊の木」を、私は予備知識のほとんどない状態で観に行った。この映画の存在を関ジャニ∞さんのサイトで知って以来、予告編も観ないようにして、雑誌を買ってもインタビューには目を通さないようにしていた。映像ものを観るのにはすごくエネルギーを使うのでなんでも観るというわけではないし、好きな人が出てるからという理由だけで行くことも作品に不誠実な気がして控えているのだが、なんとなく、作品タイトルを見て感じるものがあった。観に行こうと、すぐに決めた。決めたから、予告編を観る必要もあらすじを把握する必要もないと思ったし、実際映画を視聴後予告編を確認したところ、予告編を観ていたら作品に対する印象も変わっていただろうなという気持ちになった。結果として私は今、知らないことを選択してよかったと感じている。映画を観ている最中、私がずっと考えていたのは「人は人とどう関わって今を生きていくか」ということ。これは、「羊の木」は、そういう映画だと思った。

 初めて出会った「人」のことを、私は勿論何も知らない。その人が過去に何をしてきた人なのか、今何を考えているのか、知らない。分からない。当たり前のことだ。でも、じゃあその人がすべて洗いざらい話してくれたとして、私がその人のことすべて知り、わかることが出来るかというと絶対に、そんなことはない。この映画のなかではその過去が「殺人」という極端でわかりやすいものに置き換えられているだけで私たちはいつもそうだ。何も分からない。けれどそれはその人と関わることを諦める理由にはならない。この映画のなかで、クリーニング屋の店主と理髪店の店主、そして主人公月末の父親の姿がその証明だった。知らない、分からないまま元受刑者と接し、関わり、最終的に過去も含めて今のすべてを受け入れた。この三人と関わる元受刑者は救われた。特に、一度突き放した後でもう一度手を伸ばしたクリーニング屋の店主の姿は本当に、美しい。「好き」を諦めないことを選んだ太田の姿も強い。彼らが救われることができて本当によかった。人の持つ光を見せつけられてるような、私は嬉しかった。
 しかしそういった人の光のなかで、明確に救われなかった人もいる。杉山勝志と宮腰一郎。杉山は、ある意味救われようとすらしていなかったように見えるので自業自得のような気がするが、宮腰という男が救われなかったこと、私には少し辛いものがあった。

宮腰一郎という「人」

 彼は映画の時間のなかで唯一人を殺した。その罪は重い。現代社会では、人殺しは罪で、罰を受けなければならない。でも人はそれぞれ自分の価値観を持っていて、それにしたがって生きている。私だって、蚊を潰しても次の瞬間には平気で息をしているのだ。勿論蚊も殺せない人も一定数いる。そんな色々な人が存在する世界のなかで、たまたま彼は人を殺しても平気だった、というだけ。私には私なりの人を殺してはいけない理由があるけれど、現代社会でなぜ殺人が犯罪になるのはかというと“そう決まっているから”なのだと思う。なぜそうなのか、明確な理由なんて本当はどこにもない。価値観は人それぞれで共有できないから。彼だって、人殺しが犯罪になること、理解していなかったわけではないだろう。だからラストシーン、崖で月末に「許せないかもしれないけど、俺は俺にしかなれない」と言ったこと、本当に切なさを感じてしまう。その上、彼は最終的に“特に理由はないが昔からそうだったから決まっている”ルールの象徴のような、のろろ様に殺される。ルールを破ったものは、結局社会から罰を受けるしかないのだ。彼は救われなかった。月末は手を伸ばしたのに。社会から見捨てられたような、あるいは彼自身、既に社会を見捨てていたような、そんな印象を受けた。私には、それが悲しく思える。

「人」との距離

 個人的に少し気になったので、どの程度演出としての意図があるかは分からないが、月末と元受刑者の距離について触れておく。
(※記憶が曖昧で違ってる部分があるかも知れません)
 映画のはじめ、月末は元受刑者を一人一人車で迎えに行く。そのなかで月末が運転席、元受刑者が助手席に座っている映像があったのは福元、大野、宮腰。運転席と助手席に座っていたのは、映像のためかもしれないが、結果としてかなり距離が近くなる上、運転を人に任せるというのは一定の信頼が必要になる。福元はその後の映画のなかで月末を頼る素振りを見せるし、大野も月末に対して誠実に向かい合ってるような印象があった。宮腰はこのとき月末と打ち解けラストシーン間近では逆に宮腰の運転する車の助手席に月末が乗る映像もあるし、宮腰と文が付き合っていたとき、文が車の助手席にいた描写も印象的だった。
 それと、これも月末がそれぞれ彼らを向かいに行くときの映像のなかでだが食事をするシーンがある。同じテーブルに付くのは、福元、太田、宮腰。同じテーブルといっても、福元とは4人掛けのテーブルで斜めに向かい合って一緒にラーメンを食べ、太田だけパフェを食べるテーブルに月末は向かい合って座るだけで何も口にはせず、宮腰とはカウンター席で隣り合ってそれぞれ刺身とカレーを食べる。杉山もソフトクリームを食べる映像があるのだが、その時彼は一人で立ちながら、売店にいった月末を待っている。“生”に執着するようにラーメンをすする福元とゆっくりパフェを味わう太田の姿と、特にこだわりの無さそうにソフトクリームを食べてた杉山と、月末がすすめたからという理由で刺身を選んだであろう宮腰の姿は対照的だ。映画の展開を考えてもそれぞれ象徴的なシーンだったと思う。
 
 比較できて分かりやすいのは以上にあげたふたつの距離だったが、それ以外にも月末と父親の食事、大野による杉山への拒絶、宮腰と杉山の船のシーン、太田と月末の二度にわたる病院ロビーでの対峙、ラストシーンでの、月末の父親の病室や美容室での教え、大野と床屋の店主との自撮りなど、人と関わっていく際の距離というものを、考えさせる演出だった。

栗本清美が拾う「羊の木」

 映画のタイトルである「羊の木」について、本編ではほとんど触れられない。冒頭に「東タタール旅行記」からの引用が表示され、清掃業者として働く元受刑者の一人である栗本清美が海辺の清掃をしている際羊の木が描かれた皿が捨てられているのを見つけ持ち帰り、玄関の内側に飾る。それだけだ。パンフレットでもそれほど詳しく言及はされておらず私には、未だに「羊の木」が一体なんだったのか、確かな答えを見つけることができていない。「羊の木」を西欧人の、誤った東洋感だと解釈するなら、それは知ろうとしなければ何も知れないということになるのか。私たちは皆一人一人が狼で、他人から見たら得体の知れないものを食らいながら生きているということなのか。分からないが、分からないままでいいということにしておく。栗本も、わからない人だった。でも、それでいい。わからないままでも、関わることは出来る。受け入れることは出来るのだ。

 私は以上のように「羊の木」を受け止めた。

その他気になったこと

◇バンドシーン◇

 好きなシーン。単純に、映画のなかに音楽が流れることが好きだ。音楽を流すことは紙の上ではできない表現だから、そういった表現を映画のなかでやってくれることは嬉しいし喜びを感じる。それに、分かりやすさもある。音楽は人と関わるきっかけになるし、人と関わり続ける理由になってくれる。

◇自転車とバイク◇

 それぞれ、月末と文が乗っている。基本的に一人で乗る乗り物。車や船には自分以外の人を乗せられる。その上で、ラスト近く、たった一人でバイクに乗り崖へと走る文の姿は心強い。

◇公式パンフレット◇

 相田冬二さんのコラムがめちゃくちゃいい。あと助監督によるProduction Noteもいい。Storyは、大体映画観た人が買うんだからこんなにあらすじ長々とは要らないのではと思った。読み飛ばしていい箇所。関係者インタビューは、雑誌と内容が被ってる部分もありつつ他の人の映画の感想とも読めるので大体いつも面白く読んでる。田中さんのが面白かった。

◇漫画原作◇

 読もうかなとも思いつつ、公式パンフレットを読む限り人物造形、展開、エンディングを大幅にいじってあるそうなのでとりあえず未読のまま感想を書いておく。漫画や小説をそのままたった二時間の映画に変換することなんか不可能だし、私は必要性を感じないのでそれはそれでいいと思ってる。

◇舞台挨拶◇

 本編についてはあまり触れていなかったのでこの場で特に言及することはなし。吉田監督の「映画館には俳優を観に行ってる」という発言は興味深かった。
(タイトルの表現は舞台挨拶中に主演の錦戸亮さんが今作を観ることに対して消化に時間がかかる、朝からすき焼き食うようなもん等と発言していたことに由来)



△ここまで読んでくれた方がどれだけいるかわかりませんが、どうも有り難うございました。よかったら、貴方も「羊の木」を観て何を思ったか、何が印象に残ったのか、私にじゃなくてもいいので、どこかで発信してくれたら嬉しいです。私は、貴方を知りたい。よろしくお願いいたします。

2018.2.3.

例の特典の話

 ユーリ!!!on ICE円盤特典について、発売当時にトスつけて画像ツイートしていた話とか、もういい加減時効だと思うので加筆修正してここに置いておきます。内容は大体一緒です。
 主にユーリとオタベックの話。


▽全巻購入特典書き下ろし漫画についての話

 10話で自分を助けてくれたオタベックに対して「敵だろ?」と発言していることから他のスケーターのことを「敵」だと認識してるユーリを、オタベックは「ともだち」の提案をすることによってその考えをうち壊して新しい世界を広げて見せるんですけど、この特典漫画だとユーリのなかではまだ自分の悩みを聞いてくれるのはオタベックだけなんですよね(特典漫画台詞「絶交したら誰にも今の悩み話せねーじゃんっ」より)でも特典漫画でオタベックの場所を聞くユーリに各国のスケーターは快く協力してくれる。自分を負かした相手であるユーリのことを心から、祝福してくれる。つまり、ユーリの悩みを聞いて解決しようと動いてくれる人はちゃんといるんですよ。(特典漫画の冒頭でリリアもちゃんとエキシビジョンの何が不満なのか聞いてくれてる)それをきちんと提示した上で、それでも、本来のユーリの悩みである「エキシビジョンを滑りたくないわけではなく、『火祭りの天使』ではない違う曲でやりたい」ということに対して最高の解決策を見つけてくれるのは、なにも知らないオタベックだったっていうのが、本当にすごいことだなって思うんです。


▽特典漫画に絡めて、第6巻特典エキシビジョンの話

「もしも好きなものが自分を救ってくれると信じられたら 氷の上で何度でも生まれ変われる」
……全巻購入特典書き下ろし漫画より引用

 ユーリが自分の「好きなものが自分を救ってくれる」と信じてエキシを作り、滑り、最後に「好きなもの」でエキシを滑るきっかけを作ったオタベックに撃たれて氷の上に倒れる、という一連の流れのなかでユーリはサングラスを、ジャケットを脱ぎ捨て、「ともだち」であるオタベックの力を借りて手袋をとります。本来の自分をさらけ出すためにユーリがオタベックに代表される他者の力を必要としていることが特典漫画、特典エキシビジョン両方で示されているのです。そして、最後ユーリはオタベックに撃たれて氷の上に倒れる=他者に殺されるということは"「好きなもの」を滑るユーリ"が死んで、"勝つためならば魂すら売るユーリ・プリセツキー"に「生まれ変わる」ため、つまり、今後競技生活を続けるためにも他者の力を必要としていることをユーリは認めています。
 ユーリはオタベックの手によって殺されますが、それはまたユーリ・プリセツキーに生まれ変わるためです。その役割を担ったオタベック・アルティンという人物とユーリ・プリセツキーの関係が私には、本当に眩しいのです。


20170917