私事覚書

君に今、伝えておきたいこと

私にとっての関ジャニ∞ 追記7/3

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追記 2018.7.3.

 サイトの文を読むだけで、それと番組での彼らの扱いを観るだけで、彼らがどれだけ世界に誠実に生きているか、人間に愛されているかということがあまりにも明白なので私が言うことは何もないです。人間が人間に全てを掲示してくれる必要はないと思うし、ちゃんと今の彼らは覚悟をもってステージに立ってくれて覚悟をもって卒業していくだろうから。私は今も彼ら絶対的に信頼していて、だからこそ振り向いてほしいとは思ってません。ただ彼らの人生を、彼らが生きてくれていたらいい。その気持ちはずっと変わりません。誰かの悪意に巻き込まれることなく、彼らが彼らの人生で彼らの幸せをつかみとれますように。大丈夫、大好きだよ。

以上、追記(会見のことに触れているのでこちらで追記しました)

▽ 

 これはまだ私がEighterを名乗れなかった頃の話なんだけど初めて関ジャニ∞のライブにいくことになった友達に、うちわ作るから手伝いに来て、タコマイのMVも観ていきなよって言われて遊びにいったことがある。結局私がした作業はパソコンで文字の印刷をするぐらいであとはもう一人の友達とDVD観ながらだらだらしてたんだけど、その子はその間もずっとなんか黄色い分厚い板みたいなの切ってて、私たちが帰るとき、ありがとうって言ってくれた。その時私たちが作ったうちわの文字は『変顔して!』で、そのことを聞かされてげらげら笑ってる私に、丸山さんが好きなその子は「これだったら、誰でもできるでしょ?」みたいなことを言った。超可愛い。好き。その時、これがメンバー全員に許されるアイドルグループって最高だし、ファンがそういうの作っちゃう感じも最高。信頼があるんだなって思った。めちゃくちゃいいなぁって、羨ましかった。私がEighterって名乗れなかったのは、ずっと、Eighterさんと関ジャニ∞さんの関係が大好きで、Eighterさんのことが大好きなのもあるなぁって一個前のブログ書いた後気づきました。

 今もそう。Eighterさんのことが大好き。

 まずはその話をします。

 『変顔して!』うちわを作ってたその子のこと、好きだなって気づいたのも最近だけどライブに行った後学校であったら「丸山さんにファンサしてもらった!」ってすごく嬉しそうにしてて、その時本当に、よかったなって思ったし私も嬉しかった。もう一人ライブに行った友達がいて、その子もずーっとライブの話を嬉しそうにしてくれた。その頃の私は、関ジャニ∞の存在を認識してたけど、大体、彼らの曲を聴いてるだけで、一人一人の名前と顔はいまいち一致してなくて、メンバーカラーでなんとなーく話を聞いてたから私の友達を笑顔にしてくれてありがとうって、そんな感じだった。(でもこのあとこの二人が行ったライブ「JUKEBOX」のDVD貸してもらって「宇宙に行ったライオン」の渋谷さんに心底惚れて、TSUTAYAに今までのアルバム借りに行って彼らの曲を、聴いて、聴いて、聴いて。今も聴いてる)そういえば最近まで、私自身ちょっと忘れてたことがあって、私が好きなもののこと好きって言えるようになったのは二年前にTwitterを始めてそこでいろんな人から大好きをもらえたからなんだけど、そもそもTwitter始めたのって、一人の大好きなEighterさんをフォローするためだった。その人とは唯一Twitter始める前から知り合えてて、今も相互フォローの関係でいてもらってる。勝手にこんなこと書いてすみません。読んでないかなー。多分読んでると踏んで書きます、今も大好きです。Twitterちらっと見ました。少なくとも、私は傷ついてません。こんなこといったらバカにしてるとか思われるかも知れないけど、すごく、可愛いって思ってました。相変わらず大好きです。(本当に不快だったらブロックしてください、でもできればリムーブがいいです)日曜日の夜、tl眺めてるだけでもいろんなEighterさんが目にはいった。なにも言わずにすぐにアカウント消した人、消しますっていってまだ消してない人、消そうか迷ってる人、どうしたらいいかわからない人。どうにか一旦気持ちの整理をつけてここで自分の話をしてくれる人もいた。泣いてる人、怒ってる人、笑ってる人。私の、こんなに狭い視界に入ってくるだけでこんだけいろんな人がいるんだから、本当に、いろんな人がいるんだろうなって思う。私は、そんな狭い視界でこの一週間Eighterさんのことを見てて、すごく可愛いって思った。関ジャニ∞は私の人生だった、青春だったって、叫んでる姿。自分の感情をぶちまけてる姿。本当に可愛い。大好き。ありがとう。最高! 言わなくてもいいかと思ってたけど私が人生に、これからに、大丈夫。大好きだよって言いたい“君”は渋谷さんだし、関ジャニ∞さんだし、Eighterさんだし、何より、君のことだよ。君の人生は、君だけのものだよ。君の感情は、君だけのものなんだよ! だから、君自身のことは他の誰かに代弁されてはいけない。きれいな言葉で飾らなくってもいい、気持ちの整理なんて、一生つけんな!!! 考え方なんていくらでも変えていい。とにかく、今の君のことは、ちゃんと君が表現して。文じゃなくっていいし、絵でも詩でも歌でも音楽でもダンスでもなんでもいいから。もし私の見えるところに置いてくれるんだったら私はそれを肯定したいって、思ってるよ。大丈夫、大好き。



 次に、関ジャニ∞さんと渋谷すばるさんの話をします。

 一個前のブログを書いた時、私は会見の様子のネット記事を読んだだけで、実際の映像は一秒も観てなかった。だから月曜日の朝、ニュース番組2つ録画してから学校に行った。家に帰ってきてご飯食べて、そのニュースを飛ばし飛ばし、それでも30分ぐらいかけて観た。私は、本当に、彼らが私を育ててくれたんだなって思った。大好き。渋谷さんがジャニーズをやめる決断をしたこと、6人が関ジャニ∞を続ける決断をしたこと。どちらも、すごく重いものだ。私は何があっても彼らのことを全力で肯定したい。彼らのことを見届けたい。そう思った。村上さん、未来の話をしてくれてありがとう。未来の話をするの、本当は私すごく怖い。だって何があるかわからないから。でもちゃんと関ジャニ∞は続いていくって、表現してくれて、嬉しかった。私の夢は自分のお金で関ジャニ∞ファンクラブに入ることと、関ジャニ∞さんのライブに行くこと。私の夢、叶うって、信じてるよ。横山さん、泣いてくれてありがとう。泣いてるのを否定してくれてありがとう。泣くことで自分を表現してくれて、ありがとう。丸山さん、自分の大好きをちゃんと表現してくれてありがとう。直接言うんじゃなくてメールで送ったって辺りが、可愛いなって思ったしなんか私と一緒だなって思いました。大倉さん、誰かの代弁じゃなくって、自分の感情を自分の言葉で表現してくれてありがとう。いろんな人が言ってたけど、その姿勢に救われた人がいっぱいいます。私は大倉さん、態度悪いって思ったことないしいつもその姿勢いいなって思ってるよ。安田さん、私は安田さんからのコメントを読める立場にないんだけど、ドクターストップであの場所にいないのとか、本当に、なんか、そういう感じが好きです。関ジャニ∞さんは、関ジャニ∞だけど、ちゃんと一人一人の人間の人生を生きてるんだなってことを感じさせてくれてありがとう。錦戸さん、錦戸さんの「門出」って表現が、私には「おめでとう」って言ってるみたいに聞こえた。私、渋谷さんに「おめでとう」って言いたかったんだけど言っていいのか迷ってたからなんかすごく勝手に嬉しくなった。「一人の男の人生を」って、言ったのを聞いたとき、私、本当に育てられたんだなぁって思った。すごくすごく勝手なんだけど、私、錦戸さんのこと、渋谷さんが結婚したら一番泣いて、でもちゃんと「おめでとう」って言ってくれそうだなって思ってて、なんかそういう感じがめちゃくちゃ大好きなんです。私は「エイトレンジャー」からの彼らのことしか知らないけど、特にこの二人の関係が大好き。だから自分のことより、錦戸さんのこと考えたときの方がすごく渋谷さんに繋いだ手を離さないでって、感情がわいた。「キングオブ男!」のあの手は、誰が握るの。バンド∞のフロントメンを、フロントマンにしないでよ。って思った。「9号車2番A席」を月曜日の朝、バスのなかで聴いてるときが私、一番泣きそうだった。今までの曲を今の関ジャニ∞に重ねることはなんか違うかな、私は彼らのこれからの曲に彼らのこれからを重ねたいなって思って、あんまりそういう感じで聴いてはなかったんだけど「9号車2番A席」の、「もったいないなぁ」って錦戸さんの声が、今の渋谷さんに言ってるみたいに聞こえた。もったいないなぁ。私も、そう思うよ。渋谷さんの肩書き“関ジャニ∞のメインボーカル”は間違いなく、6人が渋谷さんのためだけに掴みとったものだよ。そもそも私はアイドルのこと知らないし、ずっと、なんでアイドルって歌うんだろって思ってた。歌って、自分の伝えたいことを表現するための方法でしかないのに他の人が作った歌を歌ってて、それで自分の歌、って。なんでだろって思ってた。今はいろいろ考えて、その歌はそのアイドルのための歌だからアイドルが自分の歌って口にして、歌ってていいんだなって思ってるけど、そんな当時の私にとって関ジャニ∞さんって、アイドルだけど自分で作詞しちゃうし作曲しちゃうし、ライブとか音楽番組で演奏もしちゃう。最高なアイドルだった。最近ではCDでも自分達で演奏した音を収録してくれる。ほんとに最高。さっき書いたけど私が彼らに心底惚れたのはライブ「JUKEBOX」の「宇宙に行ったライオン」で、バンド演奏する彼らだった。自分の音楽を、自分で表現する彼らだった。そこにある責任感、とか、今でも絶対的に信頼をおいてます。それでね、その関ジャニ∞の音楽は、きっと渋谷さんのためにあったんじゃないかなって思う。それを、置いていってしまうんだねって思うし、彼のためのものだったのに、彼を一人で行かせるんだね、とも思う。繋いだ手を離さないでよ。でも、6人に、まだここにいるって決めてくれてありがとうって、確かに思うんだ。だから私もまだここにいる。

 私の人生には関ジャニ∞の音楽が必要だったし、今では、関ジャニ∞が必要。私にとっての関ジャニ∞は7人だけど、これからの、6人の関ジャニ∞がどんな姿を見せてくれるのか、ちゃんと見届けます。関ジャニ∞を繋いでくれて、本当にありがとう。錦戸さんのことも、なんかいろいろ書いちゃったけど会見の映像で、会場に入ってくる時渋谷さんの前を歩く彼のことを思い出すと大丈夫って、思える。関ジャニ∞はフィクションじゃないけど、あの時、ああもう錦戸さんは、渋谷さんの前を歩けるんだなって、思えたんだ。

 そして私の人生に関ジャニ∞の音楽が、関ジャニ∞が必要だったように、これからさきの未来にも関ジャニ∞と、そして渋谷すばるを必要とする人は絶対、いっぱいいる。

 だから、繋いだ手を離しても、今までを全部その腕に抱えて、その人たちのところまで、遠くへ、遠くへ、行ってほしい。私は、彼らが遠くへいくその背中に全力で大丈夫と大好きを叫んで、少しでも彼らに恩返しがしたい。ここまで来てくれてありがとう。振り向かないでね。私は勝手に君のために生きるし、君も勝手に、君のために生きて。大丈夫、大好きだよ。





 あとこれはちょっと余談なんだけど気づいたことがあるので聞いてください。私、渋谷さんがやりたいのって「音楽」というより、「歌」なんじゃないかなぁって思ってて、「歌」って、わりと「言葉」じゃん。日本語の通じない海外に行って、渋谷さんのやりたいことができるんかいって思ったけど、よくよく考えたら、渋谷さんが話すのって、日本語って言うより関西弁だなって気づいてまあ大丈夫かってなりました。英語大丈夫かって前に、そもそも日本語すらそんなにちゃんと喋れてなかった。私も、普通に会話ができる程度には標準語話せるけど九州生まれ九州育ちで、それ方言だよって指摘されたときじゃあ標準語でなんて言うんだってのがわからないことがあるので、方言って、結構異国語だなって、思います。私からしたら東京だって十分異国だよ。うまかっちゃんって何、とか言われちゃうし。東京でラーメン頼んだら醤油ラーメン出てきてびっくりした。私は小学生の頃まで醤油ラーメンの存在をいまいちちゃんと認識してませんでしたよ。大阪から飛び出して、東京という異国でこれだけ立派な姿を見せてくれた彼なら、日本を飛び出しても、大丈夫かなぁと思います。どうなるんだろうって、面白がってる自分もいる。うん、楽しみです。信頼してるから。彼のこれからを、ちゃんと見届けます。大丈夫、大好き。







▽これから先は本当にすごくすごく個人的な話で、不謹慎な話もするので、そういうことを理解した上で読んでください。読まなくてもいいです。下の文章も、全部本当だけど、今までの文章も、ちゃんと、全部本当なので。




 それでもし、よかったら、貴方のことを本当の意味で傷つけたいだなんて考えてる人は、この世界のどこにもいないってこと、覚えておいてください。






























 一週間たった。一週間。長かった。まだご飯は半分ぐらい食べたら美味しくなくなるし、渋谷さんがジャニーズ事務所をやめることを考えるとお腹と胸のまんなか辺りがぐるぐるする。気持ち悪くなる。でも私はこの一週間、ちゃんと学校に行った。私の生活を続けた。先週日曜日の12時に公式サイトを更新して、お知らせを確認して、ブログを書いて、それでも、時間は止まらない。明日が来ることを、生活は続いていくことを私は知っていたから。

 二年前、私は母親の車のなかで朝を迎えたことがある。家族全員で。もうこれ以上の地震は起きないだろうって思ってたのに、それは起きて、家からでて車のなかで一晩過ごした。その時、本当に、何があっても明日はくるんだなって思った。それは希望だったし、絶望でもあった。高校一年生になったばかりの私はもう新しい友達とかできる気がしなくって、これからの高校生活不安しかなくて、本当に明日世界が滅んでくれたらいいのにって思ってた。でも明日は来た。家のなか、結構ぐちゃぐちゃなのに。私は父親の大切なCDの山を踏みつけたのに。それはもうもとに戻らない。不思議な感じがした。それからしばらくして、私たちはまた家で眠れるようになって、一週間たって、一ヶ月たって、一年たって、二年たった。明日は来るって、私はあの時知ってしまった。だからこの日曜日を越えて、明日は来るってことも、わかった。生活は続いていく。私には、私の生活がある。それを、明日からも生きていくって覚悟をした。

 7人の関ジャニ∞を忘れるのが、6人の関ジャニ∞に慣れるのが怖いという気持ち。わかるよ。でも、時間は止まらないし、明日は来るんだ。世界は続いていく。それは、変えられない。私たちは、絶対にいつか、過去を忘れる。けど過去がなくなる訳じゃないし、明日も続いていく世界は今日までの延長線でしかない。だから、大丈夫だよって言いたい。無責任かもしれない、無神経かもしれない。それでもいい。私は、絶対大丈夫って、何度でも言うよ。時間は流れていくばかりで、いつまでも過去を覚えておくのは本当に難しいから、人は文章とか、絵とか詩とか歌とか音楽とかダンスとか、そういう表現方法を作り出したんだと思う。そういうものを使って、少しでも今の自分を残しておくと絶対に、未来のためになるって思うし、実際そういう人がいて本当に心強い。大丈夫だよ。絶対大丈夫。これから先、6人の関ジャニ∞しか知らないEighterさんが生まれたら、それは関ジャニ∞さんがすごくすごく頑張ったってことだろうし、渋谷すばるのファンが生まれたら、それは渋谷さんがすごくすごく頑張ったってことなんだ。私はその時彼らを誇りに思いたいし、新しい仲間たちを祝福したいって、思う。明日は来るよ。それはどうしようもない事実で、私たちは、それぞれの場所でそれぞれに明日を迎えることしかできない。だからせめて私はこの場所から、誰も否定されずに明日を迎えられるように、祈ってます。明日が来ても、大丈夫だよ。



 それとこれは本当に不謹慎な話でしようかどうしようか本当に迷ったけど、折角なので、します。皆さんは途中でいやになったら、やめていいです。無理しないでください。


 私は今年の6月6日が来たら18歳になるんですけどその時、「人生の折り返し地点に来ました」って言おうって思ってました。これは私の記憶が正しければ安田さんが30歳の誕生日の時そういう感じのことを言ったのが、なんかいいなって思ってて。(7/3追記 確認したら22歳のときっぽいです。すみません。)まあ面白いなって思ってたんです。60歳までしか生きるつもりないんかいって思ったけど、まあ、人間っていつか死ぬし。しかも結構あっさり死ぬし。当たり前の事実としてそれは私たちの足元に転がってるわけで。彼らもいつか死ぬんだろうなって、何度も考えたことがあります。そのたびに彼らがいない世界で生きていく自信ないなって思って、じゃあうまいこと30過ぎぐらいで死ねんかなーってずっと思ってた。だから18で、人生の折り返し。

 私、36ぐらいで死ねたらいいなって思ってた。

 でも、私の、大好きな人は36で新しいことを始めるって決めた。

 こんなむちゃくちゃな背中の押し方が、押され方があるかいって思う。でも、多分渋谷さんがむちゃくちゃに振り回したその手は、確かに私の背中にぶち当たった。私は背中を押されてしまった。本当にむちゃくちゃで乱暴。生きるしかなくなっちゃったじゃん。そもそもどうせいつか世界滅びるし、私たちの価値とか、意味とか、全部なくなる日が来るんだから、私は楽しかった記憶をくれた彼らと、大好きな人と大切な人に自分の力で恩返しできたらもう死んでいいと思ってた。多分、そんなに時間かからない、ほんとに、30そこそこまで生きてたら十分かなって思うしそんなに長生きしてもやることなさそうだし。彼らの寿命とか、まじで知りたくない。でも彼がとりあえずあと36年は生きるつもりでいるんだら、私も生きなきゃって、思った。半年ぐらい前かな、もう頑張らないって宣言して、頑張らなくてもそこそこ生きていけるってことを発見したけど、まあ、仕方がねぇな、もう一回、頑張ってみるかって思った。これからも、別に頑張らなくてもいいよって言うとは思うけど、私は頑張るから、皆も、ほどほどに頑張って。応援してます。

 ここまで読んでくれて、貴方の時間を私にくれて本当にありがとう。何か一言でも、読んでよかったって思える部分があったなら嬉しいです。絶対大丈夫、大好きだよ! それでは

追記(コメントにお返事したかったんですけどやり方がわからないのでここに書きます)
 はじめまして、私もだいすきなEighterさんの一人として見られたことを本当に嬉しく思います。そして少しでも貴方を救う部分があるのなら、それはきっと貴方のために書いた文章です。どうぞ遠慮なくお受け取りくださいね。反応を返していただき本当にありがとうございます!

君の人生に、これからに、大丈夫。大好きだよ。って言いたいだけ。

 すごくすごく個人的な、私の話をするね。私、ファンクラブに入ってないし、ライブにも行ったことないんけど、関ジャニ∞さんが、大好き。はじめて彼らを認識したのは映画「エイトレンジャー」を観に行ったときで、主題歌の「ER」がいいな、って思って、数日後TSUTAYAで「8EST」を借りた。ちょうどその頃ずっと仲のよかった友達もEighterさんになって、更に中学校で新しくできた友達もEighterさんで、彼らはずっと友達との共通言語で私はずっと彼らの音楽を聴いていた。ほとんど、音楽だけを聴いていた。こんなこと言うもんじゃないかも知れないんだけど、私、アイドルのことなんにも知らない。今も、そうだなって意識は強いけど当時はもっとだった。だからあんまり、ライブとかmvにも興味なくて、バライティーとかドラマとかもちゃんと観たりはしてなかった。そんな私だったけど友達はずっとCD貸してくれたりライブDVD貸してくれたりして、「ER2」からは自分で通常盤CDを買い続けてる。彼らの音楽を聴いてる。なんか、そんな感じだったから自分のことEighterって名乗れなかった。Eighterが大切な、大切な名前だってことは当時の私みたいなやつからでもすごくわかる。だから、私は名乗れないなって、思ってた。何かを好きになることは、きっとそんなに難しいことじゃないかも知れないけど、世界に向かって好きなもののことを好き、っていうことが私にはすごく難しかった。自分に自信がなかったから。でも、最近はちゃんと関ジャニ∞さんのことが好き、渋谷すばるさんのことが好き、って言えるようになった。リビングで堂々と音楽番組を繰り返し観れるし、関ジャニ∞さんの話をするようにTwitterのアカウントを作ったりもした。一昨日かな、ジャニオタってことが発覚した友達に「私関ジャニ∞さんが好き」って言ったら「Eighterさん?」って聞かれて、「うん」って、言えたんだ。本当に嬉しかった。私、ファンクラブに入ってない。ライブにも行ったことないけど、Eighterだよ。って、言えたんだ。
 もちろん、それにはこの一年ぐらいで私の彼らに対する姿勢が変わったって言うのもある。きっかけは友達にずーっと借りっぱなしだった「関ジャニ∞の元気が出るLIVE!!」のライブDVDを観たこと。このライブDVDに関しては皆さん一人一人に思いがあるでしょうから、私も私の感想を言います。私は、とんでもない人とであったんだなって、思った。大倉忠義さんがいなかったこと、倉子がいなかったことは本当に寂しかったけど。渋谷さんが8人でも7人でも6人でも、って。これが、関ジャニ∞ですって言ったこと。それは、すごいことだと思った。すごいことなんだよ。本当に尊敬する。きっと、彼はすごく“アイドル”のこと考えてるって気がする。メトロックで「関ジャニ∞っていうアイドルグループやってます!」って挨拶してくれるし、2018年2月号のviviのインタビューで「自分らがアイドルであるという自覚は常にありますよ。アイドルの定義? なんでもやるのがアイドルじゃないですか」って答えてくれた。私は、アイドルを知らない。でも、きっとだからこそ、アイドルに対して勝手に私たちが好きになって勝手に救われてくれることを許してくれる世界で最も尊い職業なんだという意識がすごくある。彼らを消費している自覚がある。だから彼らがそうやって“アイドル”をやってることに私は救われてた。大体こういうことに気づいたのが、このライブDVDを観たときだったんだ。私は、どうにも両親に育てられたという感覚が薄くって、母親も認めてる育ての母であるピアノの先生、人間に必要なことを教えてくれた英会話の先生をはじめ今までであったたくさん人や本や音楽や映画に育てて貰ってる意識があったんだけど、ほんと、∞さんにかなり人格をつくってもらったんだなって気づいた。今まで生きてこれたのは、関ジャニ∞さんがどこかで関ジャニ∞をしてたからだなって、自覚した。で、ちゃんと向き合わなきゃと思って、ちゃんと公式サイトをチェックするようになった。ファンクラブにも入りたいし、ライブにもいきたいって思うようになった。でも私はまだ自立できてないし、今ファンクラブに入ってもそれは自分で稼いだお金じゃないって思ったら、それは嫌だなって気持ちがあった。関ジャニ∞ファンクラブも、すごくすごく大切なものだってこと、ちゃんとわかるから。自分のはじめて稼いだお金で関ジャニ∞ファンクラブに入ることと、自分の稼いだお金でライブに行くことは私の夢のひとつになった。本当は、私が彼らに心底惚れた「宇宙に行ったライオン」も生で聴きたいんだけど、それは、もう、叶わないのかな。その事実はすごく淋しい。



 私は関ジャニ∞さんがアイドルをやってることに救われてる自覚があるんだけど、本当は、私、彼らに救われたいわけじゃない。彼らに私を救おうなんて、思ってほしくない。私は、彼らに、彼らの人生を生きていってほしいだけなんだ。

 彼らが、この世界のどこかで今日も生きてるって、その事実だけで、もう十分ってぐらい私、もう、救われてる。そんな自覚がある。明日自分が死んでもいいぐらい。だからかな、一昨日家に帰ってきてすぐ母親から脱退の噂を聞いたときよりちゃんと公式から発表があった今の方が落ち着いてる。渋谷さんは“アイドル”を辞める選択をした。きっともう、彼は“なんでも”はやらないんだろうな、と思う。でも、彼らの人生だからね。これは、諦めじゃない。私は、私を肯定してくれた彼らを肯定したいだけなんだ。これから先、何があっても彼らを肯定したい。彼らも、全力で、彼らのことを肯定してほしい。謝らなくていい。振り向かなくていいよ。私に、これからもずっとその背中に向かって大好きを、ありがとうを叫ばせてほしい。彼らが安心して私たちに背中を向けていてくれる限り、私は、この生きづらい世界で生きていけるんだ。

 君に幸せでいてほしいって、私の気持ちは、これからもずっと本当のつもりだよ。

 

 私、ちゃんと好きなものに好きって言えるようになった。その事実が今すごく嬉しい。関ジャニ∞さんが、渋谷すばるさんが、好き。大好き! これからもずーっと大好き! 大好き! 大好き! 大好き! 私はEighterです! 名前をくれてありがとう! 私を、救ってくれて、育ててくれて本当にありがとう! 本当はそれ以上に、言うことなんかないんだと思う。大丈夫。大好きだよ。それだけ。絶対大丈夫。大丈夫だよ。無責任かも知れない。でも、一人ぐらい、この世界で無責任に大丈夫を連呼する人間がいてもいいかもって思ったんだ。私、アイドルのこともジャニーズのことも全然知らないけど、関ジャニ∞さんは私にとって絶対的に大好きな存在なんだ。何かと比べることなんかしたくない。いつかちゃんと、恩返しさせてね。人生を切り売りしてくれる彼らに、私は勝手に、私の人生でもって恩を返します。
 



 今、一昨日とか、ライブDVD観た日の日記とか読み返しながらこの文章打ってるんだけど、本当は、一昨日の夜から今日の朝までずっと、どうしようって思ってた。どうしよう、私の夢、叶わないじゃんって、思ってた。あくまで噂の段階だったからそういうこと考えるのもよくないなとは思いつつもずっと不安で、何度も何度も公式サイトを更新してた。でも、私、今泣いてない。午前中自分の書いた文章とか読み返して、そうだね、って思って気持ちの整理ができたんだと思う。今皆すごく不安だよね、私も不安。渋谷さんのいない関ジャニ∞は、だって、ほんとにイメージできないもん。ずっと「関ジャニ∞」を名乗ってくれるって、思ってた。途中参加の私ですらこうなんだから、私より、もっといろんな思いがいっぱいある人もいること、知ってます。だからこれは浅はかな提案かもしれないけど、その思いを何らかの形で残しておいた方がいいと思う。私はもともと関ジャニ∞さんに関していつかちゃんと書いておきたいなと思ってて、メモもあったから今こうしてブログ書いてるけど、それこそ、Twitterとか日記とかでいい。詩でも、絵でもいい。記録は、案外未来の自分を救ってくれる。それは過去の事実だから。誰かに見せなくってもいい。残しといて。絶対にその事実は、未来の自分を救ってくれるはず。
 私の個人的な話にここまで付き合ってくれてありがとう。いつかしようと思ってた関ジャニ∞さんの話が、こんな形になったのは私自身すごく驚いてるけど、最後にもう一回、言っておくね。大丈夫。大好きだよ。

2015年の日記

▽昨日「羊の木」を観に行きネタバレ感想を一個前のブログ記事で書いていますが、実は、あれを書き終えて自分で読み返しながらなぜか「味園ユニバース」のことを思い出していました。

※「味園ユニバース」「羊の木」の内容に触れており、ネタバレも多いです。観覧は自己責任でお願いいたします。

味園ユニバース

 2015年2月に公開したこの映画を、私は“渋谷すばるさんが主演だから”という理由で観に行った。浅はかだった。私は、作品のエネルギーを消化しきれずに数日間具合が悪くなった。それ以来、怖くて一度も観れていない。ブルーレイの円盤は自室にあるにも関わらず、だ。でもふとあることに思い出す作品だし、今回「羊の木」を観て、買ってあった雑誌のインタビューや対談などを読んでいるとこの二作は、対局に位置するのではないかという気分になった。更に、色々考えた。そのきっかけとなった、2015年の自分の日記をまずはほぼ原文そのまま掲載する。

2015年3月29日(日)

 しょっぱなからやられた……。
 もう、なんか、正直最初から最後までずっと辛かった。
 音楽のシーンは、映画館全体に、音が響いて、震えてた。
 感じたのは、どストレートな不安定さ。ずっと不安定だった。でも、生きてるんだったら皆そうだ。安定なんかどこにもない。
 最後のライブをもう一度みたい。
 途中参加の私がこれを観ることができて本当にありがたい。出会えてよかった。
 ただ映像ものはどうしてもエネルギーつかうな……食欲も消えてしまった。しばらく放心状態だった。
 まだなんか消化しきれてない感じ。
 パンフレットももったいなくてまだ全部読めてないし。
 ああ、でも、いいものを観た。
 映画最高でした。本当にありがとう。

2015年3月30日(月)

 味園ユニバース
 一日たってやっと消化できたって感じする。
 やっと、「よかった」と思える。
 もう一度観たいけど、……観れないな、これは。
 でも最後のライブはもう一度観たい。聴きたい。
 ああ、でも、これは引きずるなー。本当に。
 なんか、どうしようもなく大きなエネルギーのかたまりをドーンっと見せつけられたような感じ。
 だって、あそこにいたの「ポチ男」だったもん。
 でも「渋谷すばる」でもあるのかもしれない。
 だめだ消化できてない。
 わかんない。全然、わかんない。

2015年3月31日(火)

 「味園ユニバース」は“渋谷さんの映画”じゃなくて“ポチ男の人生”として観に行かないとぶちのめされる。
 もう一回行きたいな。
 あそこで歌っていたのは、いったい、誰だったのか?

2015年4月3日(金)

 やっとこさパンフレットを読み終わる。
 「味園ユニバース
 どうなんですか?
 なんだろう、この、もやもやした感じっていうかなんていうか。
 ものすごくスケールの大きな事件が起きたわけじゃなくて、すべて最悪な方にすっころんでもわりとそれはそれでおさまりそうな世界とか人なんだけど、人が人を必死に繋ぎとめようとしている。

 

味園ユニバース」と「羊の木」

 この日記のどこに引っ掛かったのか。ひとつ目は、私の映画に対する姿勢の違いだ。前回のブログに記述があるように私は基本、出演者を動機に映画やドラマを観ることを控えている。しかし「味園ユニバース」は日記で「途中参加の私」という言葉があるし、ブログの冒頭に書いた通り渋谷さんを視聴の動機にした。それは浅はかではあったが、今は、それでよかったと思っている。あれは確かに“ポチ男の人生”だったけど、“渋谷すばるのための映画”でもあったから。「途中参加の私」で観に行く価値のある作品だった。その点、「羊の木」は“錦戸亮のための映画”ではなかった。(私がこの作品を知ったのは関ジャニ∞さんのサイトだったし、観に行く動機に錦戸さんが主演だからという理由が全く入っていなかったかというとそうではないが)「羊の木」のなかで錦戸さんが演じる「月末一」は“普通の人”だ。公式パンフレットや、雑誌のインタビューで語られているが月末はひたすら受け手に徹している。月末が受け手の人ならば、ポチ男は明らかに攻め手の人だろう。作品の在り方として、この二作は決定的に異なる。しかし本編の内容としては寧ろ似ているのではないかと思った。これが引っ掛かった点二つ目だ。
 
 なにしろ3年前に観てから一度も観れていないので自身の記憶も微妙だったが、日記を読み返していて、気づいた。予感は「羊の木」のなかでもあった。月末が大野を迎えるシーン。大野だけは、唯一刑務所から出てくるところを月末も見ている。私はこのシーンを観てすぐ「味園ユニバース」の冒頭を思い出した。忘れられない、今でもあの冒頭ははっきりと思い出せる。衝撃だったのだ。その後黒い車が追いかけてくるのも含めて、私は、(ああ、味園ユニバースで観たことがある)と思っていた。異論があるかもしれないが、私は今、ポチ男と大野は同じだと思っている。ポチ男は記憶をなくして、大野は国家企画として、それぞれ過去を知らせないまま人と関わる。そして、過去を暴き、一度は去っていく。でも、もう一度、もう一度、二人は、手を引かれる。カスミと、クリーニング屋の店主は彼らを、繋ぎとめようとしてくれる。救いだ。私は何度か教会に行く機会があり、その日はじめて出会った人から神に祈ってもらった経験があるし、私自身よく人のために祈るが、それでも、人を救うのは基本的に人だと思っている。「羊の木」にはのろろ様という守り神が登場し最後はルールを破った宮腰を海に沈める。それを超自然的なものによる「俺にしかなれない」宮腰への“救い”だと捉えることもできるが、私は、しかし、本当に宮腰を救うことができたのは月末だったと思っている。彼は、殺されかけてもなお、宮腰へ手を伸ばす。ふたりが友だちだったのかという点には正直疑問も残るが、それでも月末は確かに宮腰を救おうとしていた。結果として救いきれず、彼は日常に戻っていくが、あの時彼が手を伸ばしたという事実が私の胸には残っている。
 救われた人も、救われなかった人も確かに存在するが人を救うことは“できる”のだ。それは、三年という年月を跨いで二つの映画から共通して私が感じたことだ。「味園ユニバース」と「羊の木」、対照的な位置にある作品ながら、本質的なところでは同じなのではないか。私はそう感じたということをここにこうして残しておく。


△「味園ユニバース」「羊の木」非常に重い映画です。私は関ジャニ∞さんを取り巻く流れのなかでこの二作に出会いましたが、きっとそういう縁がなければ一生観ることはなかったと思いますし、軽率に人にすすめられる作品でもないです。でも、よかった。出会えて、彼らと関わることができてよかった。「味園ユニバース」は本当に一度観たっきりなので近いうちにもう一度、なんとか踏ん張って観たいと思います。またまた粗削りな文章ながらこの辺で。ここまで読んでいただきありがとうございました。

2018.2.4.

朝からすき焼き食ってきました。

▽映画「羊の木」公開日一発目と舞台挨拶ライブ中継を視聴後、公式パンフレットを読み、予告編を確認し、雑誌(ピクトアップ2018 2・JMovieMagazine Vol.31・プラスアクト2018 2)のインタビューと対談を把握した上での私の感想を粗削りながら一旦まとめます。

※本編の内容、ネタバレを大量に含む上、映画を視聴していないと分からない部分も多いと思いますので観覧は自己責任でお願いします。


「人」と関わる

 「羊の木」を、私は予備知識のほとんどない状態で観に行った。この映画の存在を関ジャニ∞さんのサイトで知って以来、予告編も観ないようにして、雑誌を買ってもインタビューには目を通さないようにしていた。映像ものを観るのにはすごくエネルギーを使うのでなんでも観るというわけではないし、好きな人が出てるからという理由だけで行くことも作品に不誠実な気がして控えているのだが、なんとなく、作品タイトルを見て感じるものがあった。観に行こうと、すぐに決めた。決めたから、予告編を観る必要もあらすじを把握する必要もないと思ったし、実際映画を視聴後予告編を確認したところ、予告編を観ていたら作品に対する印象も変わっていただろうなという気持ちになった。結果として私は今、知らないことを選択してよかったと感じている。映画を観ている最中、私がずっと考えていたのは「人は人とどう関わって今を生きていくか」ということ。これは、「羊の木」は、そういう映画だと思った。

 初めて出会った「人」のことを、私は勿論何も知らない。その人が過去に何をしてきた人なのか、今何を考えているのか、知らない。分からない。当たり前のことだ。でも、じゃあその人がすべて洗いざらい話してくれたとして、私がその人のことすべて知り、わかることが出来るかというと絶対に、そんなことはない。この映画のなかではその過去が「殺人」という極端でわかりやすいものに置き換えられているだけで私たちはいつもそうだ。何も分からない。けれどそれはその人と関わることを諦める理由にはならない。この映画のなかで、クリーニング屋の店主と理髪店の店主、そして主人公月末の父親の姿がその証明だった。知らない、分からないまま元受刑者と接し、関わり、最終的に過去も含めて今のすべてを受け入れた。この三人と関わる元受刑者は救われた。特に、一度突き放した後でもう一度手を伸ばしたクリーニング屋の店主の姿は本当に、美しい。「好き」を諦めないことを選んだ太田の姿も強い。彼らが救われることができて本当によかった。人の持つ光を見せつけられてるような、私は嬉しかった。
 しかしそういった人の光のなかで、明確に救われなかった人もいる。杉山勝志と宮腰一郎。杉山は、ある意味救われようとすらしていなかったように見えるので自業自得のような気がするが、宮腰という男が救われなかったこと、私には少し辛いものがあった。

宮腰一郎という「人」

 彼は映画の時間のなかで唯一人を殺した。その罪は重い。現代社会では、人殺しは罪で、罰を受けなければならない。でも人はそれぞれ自分の価値観を持っていて、それにしたがって生きている。私だって、蚊を潰しても次の瞬間には平気で息をしているのだ。勿論蚊も殺せない人も一定数いる。そんな色々な人が存在する世界のなかで、たまたま彼は人を殺しても平気だった、というだけ。私には私なりの人を殺してはいけない理由があるけれど、現代社会でなぜ殺人が犯罪になるのはかというと“そう決まっているから”なのだと思う。なぜそうなのか、明確な理由なんて本当はどこにもない。価値観は人それぞれで共有できないから。彼だって、人殺しが犯罪になること、理解していなかったわけではないだろう。だからラストシーン、崖で月末に「許せないかもしれないけど、俺は俺にしかなれない」と言ったこと、本当に切なさを感じてしまう。その上、彼は最終的に“特に理由はないが昔からそうだったから決まっている”ルールの象徴のような、のろろ様に殺される。ルールを破ったものは、結局社会から罰を受けるしかないのだ。彼は救われなかった。月末は手を伸ばしたのに。社会から見捨てられたような、あるいは彼自身、既に社会を見捨てていたような、そんな印象を受けた。私には、それが悲しく思える。

「人」との距離

 個人的に少し気になったので、どの程度演出としての意図があるかは分からないが、月末と元受刑者の距離について触れておく。
(※記憶が曖昧で違ってる部分があるかも知れません)
 映画のはじめ、月末は元受刑者を一人一人車で迎えに行く。そのなかで月末が運転席、元受刑者が助手席に座っている映像があったのは福元、大野、宮腰。運転席と助手席に座っていたのは、映像のためかもしれないが、結果としてかなり距離が近くなる上、運転を人に任せるというのは一定の信頼が必要になる。福元はその後の映画のなかで月末を頼る素振りを見せるし、大野も月末に対して誠実に向かい合ってるような印象があった。宮腰はこのとき月末と打ち解けラストシーン間近では逆に宮腰の運転する車の助手席に月末が乗る映像もあるし、宮腰と文が付き合っていたとき、文が車の助手席にいた描写も印象的だった。
 それと、これも月末がそれぞれ彼らを向かいに行くときの映像のなかでだが食事をするシーンがある。同じテーブルに付くのは、福元、太田、宮腰。同じテーブルといっても、福元とは4人掛けのテーブルで斜めに向かい合って一緒にラーメンを食べ、太田だけパフェを食べるテーブルに月末は向かい合って座るだけで何も口にはせず、宮腰とはカウンター席で隣り合ってそれぞれ刺身とカレーを食べる。杉山もソフトクリームを食べる映像があるのだが、その時彼は一人で立ちながら、売店にいった月末を待っている。“生”に執着するようにラーメンをすする福元とゆっくりパフェを味わう太田の姿と、特にこだわりの無さそうにソフトクリームを食べてた杉山と、月末がすすめたからという理由で刺身を選んだであろう宮腰の姿は対照的だ。映画の展開を考えてもそれぞれ象徴的なシーンだったと思う。
 
 比較できて分かりやすいのは以上にあげたふたつの距離だったが、それ以外にも月末と父親の食事、大野による杉山への拒絶、宮腰と杉山の船のシーン、太田と月末の二度にわたる病院ロビーでの対峙、ラストシーンでの、月末の父親の病室や美容室での教え、大野と床屋の店主との自撮りなど、人と関わっていく際の距離というものを、考えさせる演出だった。

栗本清美が拾う「羊の木」

 映画のタイトルである「羊の木」について、本編ではほとんど触れられない。冒頭に「東タタール旅行記」からの引用が表示され、清掃業者として働く元受刑者の一人である栗本清美が海辺の清掃をしている際羊の木が描かれた皿が捨てられているのを見つけ持ち帰り、玄関の内側に飾る。それだけだ。パンフレットでもそれほど詳しく言及はされておらず私には、未だに「羊の木」が一体なんだったのか、確かな答えを見つけることができていない。「羊の木」を西欧人の、誤った東洋感だと解釈するなら、それは知ろうとしなければ何も知れないということになるのか。私たちは皆一人一人が狼で、他人から見たら得体の知れないものを食らいながら生きているということなのか。分からないが、分からないままでいいということにしておく。栗本も、わからない人だった。でも、それでいい。わからないままでも、関わることは出来る。受け入れることは出来るのだ。

 私は以上のように「羊の木」を受け止めた。

その他気になったこと

◇バンドシーン◇

 好きなシーン。単純に、映画のなかに音楽が流れることが好きだ。音楽を流すことは紙の上ではできない表現だから、そういった表現を映画のなかでやってくれることは嬉しいし喜びを感じる。それに、分かりやすさもある。音楽は人と関わるきっかけになるし、人と関わり続ける理由になってくれる。

◇自転車とバイク◇

 それぞれ、月末と文が乗っている。基本的に一人で乗る乗り物。車や船には自分以外の人を乗せられる。その上で、ラスト近く、たった一人でバイクに乗り崖へと走る文の姿は心強い。

◇公式パンフレット◇

 相田冬二さんのコラムがめちゃくちゃいい。あと助監督によるProduction Noteもいい。Storyは、大体映画観た人が買うんだからこんなにあらすじ長々とは要らないのではと思った。読み飛ばしていい箇所。関係者インタビューは、雑誌と内容が被ってる部分もありつつ他の人の映画の感想とも読めるので大体いつも面白く読んでる。田中さんのが面白かった。

◇漫画原作◇

 読もうかなとも思いつつ、公式パンフレットを読む限り人物造形、展開、エンディングを大幅にいじってあるそうなのでとりあえず未読のまま感想を書いておく。漫画や小説をそのままたった二時間の映画に変換することなんか不可能だし、私は必要性を感じないのでそれはそれでいいと思ってる。

◇舞台挨拶◇

 本編についてはあまり触れていなかったのでこの場で特に言及することはなし。吉田監督の「映画館には俳優を観に行ってる」という発言は興味深かった。
(タイトルの表現は舞台挨拶中に主演の錦戸亮さんが今作を観ることに対して消化に時間がかかる、朝からすき焼き食うようなもん等と発言していたことに由来)



△ここまで読んでくれた方がどれだけいるかわかりませんが、どうも有り難うございました。よかったら、貴方も「羊の木」を観て何を思ったか、何が印象に残ったのか、私にじゃなくてもいいので、どこかで発信してくれたら嬉しいです。私は、貴方を知りたい。よろしくお願いいたします。

2018.2.3.

例の特典の話

 ユーリ!!!on ICE円盤特典について、発売当時にトスつけて画像ツイートしていた話とか、もういい加減時効だと思うので加筆修正してここに置いておきます。内容は大体一緒です。
 主にユーリとオタベックの話。


▽全巻購入特典書き下ろし漫画についての話

 10話で自分を助けてくれたオタベックに対して「敵だろ?」と発言していることから他のスケーターのことを「敵」だと認識してるユーリを、オタベックは「ともだち」の提案をすることによってその考えをうち壊して新しい世界を広げて見せるんですけど、この特典漫画だとユーリのなかではまだ自分の悩みを聞いてくれるのはオタベックだけなんですよね(特典漫画台詞「絶交したら誰にも今の悩み話せねーじゃんっ」より)でも特典漫画でオタベックの場所を聞くユーリに各国のスケーターは快く協力してくれる。自分を負かした相手であるユーリのことを心から、祝福してくれる。つまり、ユーリの悩みを聞いて解決しようと動いてくれる人はちゃんといるんですよ。(特典漫画の冒頭でリリアもちゃんとエキシビジョンの何が不満なのか聞いてくれてる)それをきちんと提示した上で、それでも、本来のユーリの悩みである「エキシビジョンを滑りたくないわけではなく、『火祭りの天使』ではない違う曲でやりたい」ということに対して最高の解決策を見つけてくれるのは、なにも知らないオタベックだったっていうのが、本当にすごいことだなって思うんです。


▽特典漫画に絡めて、第6巻特典エキシビジョンの話

「もしも好きなものが自分を救ってくれると信じられたら 氷の上で何度でも生まれ変われる」
……全巻購入特典書き下ろし漫画より引用

 ユーリが自分の「好きなものが自分を救ってくれる」と信じてエキシを作り、滑り、最後に「好きなもの」でエキシを滑るきっかけを作ったオタベックに撃たれて氷の上に倒れる、という一連の流れのなかでユーリはサングラスを、ジャケットを脱ぎ捨て、「ともだち」であるオタベックの力を借りて手袋をとります。本来の自分をさらけ出すためにユーリがオタベックに代表される他者の力を必要としていることが特典漫画、特典エキシビジョン両方で示されているのです。そして、最後ユーリはオタベックに撃たれて氷の上に倒れる=他者に殺されるということは"「好きなもの」を滑るユーリ"が死んで、"勝つためならば魂すら売るユーリ・プリセツキー"に「生まれ変わる」ため、つまり、今後競技生活を続けるためにも他者の力を必要としていることをユーリは認めています。
 ユーリはオタベックの手によって殺されますが、それはまたユーリ・プリセツキーに生まれ変わるためです。その役割を担ったオタベック・アルティンという人物とユーリ・プリセツキーの関係が私には、本当に眩しいのです。


20170917

なぜ私がオタベック・アルティンに蹴り落とされたかについての個人的な考察

 以下の文は私が何故ユーリ!!!on ICEに登場するキャラクターであるオタベック・アルティンにこれほどまでに惹かれたのかを整理し2017年3月16日にまとめたものに2017年4月29日現在、更に加筆修正をしたものです。どうしようもなく主観的な意見がまとめられているだけな上、そもそも着手したきっかけがフォロワーさんからの質問であり、本来ならば身内のみ(私をある程度知っている方)へ向けた文なのですが折角なのでこのような形で残しておこうと思いここに投稿することにしました。
 以上の点を、予めご了承ください。


◆◆◆


0.はじめに


 まず最初に、私は「才能」の存在を信じていないことを断っておく。世界中の「天才」を私は否定する。極めて私事ではあるが、この文章自体そもそも私事の塊であるためこのぐらいの主張は許していただきたい。ちなみに余談だが、誉め言葉としてのそれらに関してはその限りではない。誉められれば、少なくとも私は嬉しいと感じるからだ。しかしながら誰かに向かって「才能がある」と発言する際、例えそれが誉め言葉であったとしてもそれは彼、もしくは彼女の今までの努力を否定する側面は少なからずあるように思う。(あくまでこれは私の感覚であり価値観であるため自分以外の人間がどのような言葉を用いて他者を誉めるかということに口出しをしたいわけではない。)センスや直感ぐらいなら、それらはひどく曖昧なものであるためある意味では存在するかもしれないが、ここでは、私は才能という「能」は存在しないと言い切ることにする。

 そういうわけで、オタベック・アルティンという男に出会い、彼のことを最高の男だと形容しているのは(例え将来この主張を覆すことになったとしても)今現在の、才能という「能」の存在を信じていない人間なのだということを頭にいれてこれから先へ進んでほしい。


1.ユーリ・プリセツキーは天才か

 オタベック・アルティンの話をする前にユーリ・プリセツキーという人物について触れておく。それは彼がオタベック・アルティンという男を語る上で欠かせない存在であり、先に述べた「才能」についても十分に語るに足る要素を持っているからである。

 まずユーリと才能について。彼はGPF後トイレで泣いていた主人公である勝生勇利へ向かい「才能がないやつはさっさと引退しろ、ヴァァーーーカ!!!」と発言している。(アニメ1話)「来年からシニアに上がる」つまり、スケートを続ける自身のことを彼は「才能」があると主張しているのだ。しかし私は前述したように、才能の存在を否定する。ユーリ・プリセツキーは天才か? 私の答えはNOだ。彼の美しさについてなら、それは生まれ持ったものということで一種の才能と捉えることもできるが、いずれにせよそれは「能」ではない。その上、彼自身そのことをひとつの「武器」だと認識しており、尚且つそれを使えるのは「今だけ」だと理解している。ようするに、自分の力で手にいれたわけではないものに対して彼は、それを利用こそすれ頼りするような考え方はしていないのである。私はこのことに気づいたとき、ユーリ・プリセツキーは、本質的なところで自分は才能をもっているわけではないと理解していると思った。ではなぜ彼は、自分には「才能」があると主張したのか? 私が思うに、彼は、自分の努力に自信がないのだろう。彼の目の前に生きる伝説であるヴィクトル・ニキフォロフがいたことも十分その要因に成りうる上、そういう目線で観るならば、その根拠とすることの出来る言動(周囲の人間への反抗的な態度等)も多いだろう。ではここで更に質問を追加する。そんなユーリ・プリセツキーがグランプリファイナルで優勝できたのはなぜか? 彼が自分の努力に自信を持つことができたからである。ではなぜ自信を持つことができたか? 無論、彼のともだち、オタベック・アルティンが彼の過去を肯定したからである。


2.オタベック・アルティンという英雄

 ユーリ・プリセツキーのグランプリファイナル優勝はオタベック・アルティンの存在によるものだというのは流石に大袈裟だった。しかしながら、彼の存在が一つの要因ではあったことは確かである。ここから先はオタベック・アルティンにもスポットライトを当て、話を続ける。

 既に周知の事実であるが、一応おさらいしておくと彼はGPF前日、ユーリのことをバイクで拐った後「ユーリ・プリセツキーは一度見たら忘れらない、ソルジャーの目をしていた」と発言している。(アニメ10話)ユーリ本人には記憶がないようだったが、彼は14歳の夏サマーキャンプでユーリ・プリセツキーの姿を目撃している。アニメでは一瞬しか放送されていなかったが、それは、氷の上で完成される前のユーリの努力そのものである。その瞬間の彼の感情は当時の言葉ではなく現在の彼によって語られる。(アニメ11話)曰く「圧倒的な才能」。これが昔の彼がユーリ・プリセツキーに抱いた感情なのか今の彼が昔を回想し抱いた感情なのか判断がつけづらいところではあるが、しかしながら、ユーリ・プリセツキーのスケートを圧倒的な才能だとした上で彼のことを「ソルジャー」であると形容できるだろうか? ソルジャーとはsoldier、つまり兵士のことである。


soldier:
【原義:金貨(sold)のために働く人(ier)】
①(陸軍の)軍人《◆将校・兵士の全部を含む;呼びかけも可》
②兵士、兵卒、兵《◆勇敢さ・防衛・奉仕・低い身分の象徴》

大修館書店ジーニアス英和辞典第4版より引用


彼がどのような意味でもってユーリのことを「ソルジャー」と評したのか、はっきりとはわからない。ここで根拠としている私の調べが不充分である可能性もある。しかし、もし兵士という意味でその言葉を用いたのであれば彼は「才能」を否定していることになるだろう。なぜならば兵士こそ、最も才能などといったものとはかけ離れた一番位の低い存在であるのだから。


兵士:
兵隊
類語:兵卒・士卒

兵卒:
いちばん下の位の軍人。兵。

戦士:
①戦場で、たたかう兵士。
②最前線で活躍する人。

三省堂現代学習国語辞典特製版より引用


繰り返しになるが、つまり彼はユーリをソルジャーと形容することによりあの日目撃した「圧倒的な才能」を否定している。これが私の希望論であることは否定できないが、オタベック・アルティンはもう才能の存在を信じていないだろう。だからこそ、ユーリをソルジャーと形容しうることができたのだ。ユーリはオタベックにソルジャーと形容されることにより才能を否定され、かつての、そしてこれまでの努力を肯定された。その後のシーンでも、ユーリはオタベックに対して反抗的な態度をとらないことについてユーリは自信を持ったのだと解釈することもできるだろう。

 さて、現在の彼によって語られる以前についてもうひとつ言及しておきたい箇所がある。それは、「圧倒的な才能」を前にした際、彼が「この人たちにできないことを見つけないと、一生勝てない」と認識した上で「あれ以来バレエは踊っていない」ことである。これはアニメ本編では触れられなかった要素ではあるが、放送後の関係者のインタビューなどから彼はフィギュアスケートだけでなく音楽などの異なった方面にも明るいという側面をもつ人物であるとされている。その情報を耳にしたとき私は、彼は「この人たちにできないこと」を探したのだと思った。その一つとして彼は「バレエを捨てること」を選択したのだろう。「この人たちにできないこと」と「自分にできること」が同じである場合は実際、そんなに多くはないのだ。バレエが「できる」人はバレエを捨てることが「できない」のであるという言い方もできる。私はスケートの知識が全くないため、フィギュアスケートにおいてバレエがどれほど重要なものであるかということについては実はよくわかってはいない。しかしアニメ本編やユーリについて、あれだけクローズアップされていたバレエの要素を自ら手放した彼はそれだけで特別だった。諦めたわけではなく、自分の判断で切り捨てたのだ。それはスケートを諦めないための選択だ。例え遅咲きの花になろうとも、彼はそれを選んだのだ。それに彼は立派に咲いて見せたではないか。それこそが、正しく彼についての事実のはずだ。

 ちなみに、オタベックのスケートについて勝生勇利は「彼のスケートには迷いがない。その、迷いのなさが彼らしさだ」と評している。(アニメ11話)なぜ彼のスケートには迷いがないのか? 自信があるからだ。繰り返しになるが、彼はもう才能を信じてはいないだろう。信じているのは自分の選択、自分の努力。それこそがオタベック・アルティンらしさなのだと他者の口を通し語られていることこそ、彼が才能を信じていない根拠には成らないだろうか? 才能を信じていない私の人生に現れた「圧倒的な才能」を前に自らの決断で「自分らしさ」を勝ち取ったオタベック・アルティンこそ、偉大なる英雄であり、私にとってただただ眩しい光なのである。


◆◆◆


 それと、これは完全な蛇足なのだが「才能」についてもうひとつ、ユーリから「才能がない」と評された後の勇利が興味深い言葉を残していたので紹介しておこうと思う。彼は同郷の後輩である南健次郎に対し「フィギュアスケートに必要な才能をもう持っている」と評価しているのである。(アニメ5話)この文から読み取れることは2つ。ひとつ目は相手がスケーターに必要な才能を「持っている」とすることで発言者、つまり勝生勇利自身はその才能を「持っていない」ことを認めていること。もうひとつは、才能を「もう」持っているとすることで才能は「これから」手にすることもあるとしていることである。

 ひとつ目に関して、彼がGPF後ユーリに言われた「才能がない」発言を引きずっていることは明らかだとして、その才能をユーリほどではないにしろ年下である南に使っているところが興味深い。才能という言葉は年下であったり若年層の人間に対して使われることが多く、この場合の勇利は正しくそういう図なのだが、しかしながら彼が南のことを羨んでいるとかそのようなことは全くなく、何より、そもそも彼はそれらの「才能」を必要と感じていないようにさえ見えるのである。実際彼があの時最も課題としていたのはメンタル面でのことのようでであったし精神的な事柄となるとどうしても生まれや育ちの環境が作用してくることもあり努力によってなんとかすることのできないため、一種の「才能」と数えることもできなくはないがユーリの美しさ同様「能」ではないだろう。更に、二つ目の要素「これから」才能を手にする可能性があるという思想も考慮すると、彼は南をのことを「才能を持っている」としながらその実「才能」の存在を信じているようには思えないのである。

 勝木勇利も才能の存在を信じていないように見えたのは私の主観的な見方かもしれないが、少なくとも彼が才能の有無を気にしているようには見えない。彼は自分で「才能がある」とした年下にだって本気の戦いを挑む。自分に突っかかってくるユーリへの対応も余裕あるものだ。「才能」という言葉が若年層に対して使われることが多いのは、一般的に何かを成し遂げるにはある程度の時間が必要とされており、実際それは正しい理論であるのだがそれによって【時間が必要である=若いうちには成すことができない】という等式が成り立ってしまうことにあるのだろう。まだ若いから、本来必要である時間を持っていない代わりに特別な何かを持っているのだろうとすることは、彼、もしくは彼女がそれを成し遂げるために用いた時間をなかったことにしているということであり「才能」という言葉を使い人を評価する際そこには努力を無視する面があるというにはここに起因するものである。何かを成し遂げるために彼らが彼らの時間を用いていない訳がないのだ。そして勇利は、自身の「時間」を地元から肯定されている。そんな彼が、彼らの「時間」を否定するなど考えられない。ではここでの彼の発言は一体なんだったかというと、ユーリに「才能がない」と言われたが故に「自分にないもの」のことを「才能」という言葉を使って形容しているだけのことなのだ。


◆◆◆


4.終わりに

 また極めて私事な話になる。しかもちょっと長くなった。それでもよければ読んでもらいたい。そうでなければ、ここまで読んでくれた貴方に一言お礼を言わせてほしい。貴方の時間を私にくれて、本当にありがとう。はじめから終わりまで主観による考察だったがなにか一言でも貴方の印象に残る文が書けたとしたら、私は嬉しく思う。

 さて、私の話になる。私はここ一年以上「才能」というものに悩んでいた。なぜなら私には才能がなかったからである。テレビのなかにも学校にも、私よりあらゆる点で優れている人間が大勢いた。彼らには才能があるのだと言って特別視するには容易なことで、実際に何度か試したこともあるがある日やっぱり嫌になった。頑張れば全員が全員、オリンピックに行けるわけではない。夢を叶えられる人はほんの一握りで、その氷山の一角がテレビで夢は叶うと言っているだけだ。そんな言葉に反抗したくなった。だから私は、全てやると決めた。思い付いたこと、やってみたいと思ったことを諦めないと決めた。だから私は小説を書き、絵を描き、今もこうして文を書いている。こんなに長々と意見を書くのは初めてだったが、思い付いて、やりたいと思ったから、やった。私には「私らしさ」がわからないから、こういうことを続けていたらいつかこれが「私らしさ」に繋がってくれるかもしれないと期待した。オタベック・アルティンはそんな私の前に現れた光のひとつだ。私は、彼のことが好きだ。彼の生き方が、彼の選択が好きだ。そして彼の光であるユーリ・プリセツキーのことも好きだ。なにより、二人の関係がどうしようもなく眩しい。私はずっと、誰かの生きる理由になりたいと思って生きている。私にとって互いを照らし合う二人は本当に光なのである。「正しい道なんて必要ない」と彼は言う。ダイヤモンドの原石を探す必要はない、泥団子だって磨けば光るのだ。そもそも正しい道とは何か? それは自分の目の前にしか現れない。つまり、結局は自分の思い込みでしかないはずだ。それを「必要ない」と放棄した彼の選択こそ、私にとっての「正しさ」である。故に私はオタベック・アルティンのことを最高の男であると形容する。

 私は、ずっと「才能」というものに悩んでいた。なぜなら私には才能がなかったからである。そして今も、私には才能などというものはない。私は才能の存在を信じていないからだ。






最後になりましたが私をオタベック・アルティンはじめ数々の光に出会わせてくれたユーリ!!!on ICE、そしてユーリ!!!on ICEに出会わせてくれたくれた全ての人へ心からの感謝を申し上げます。そして最後まで付き合ってくれた貴方にも。本当にありがとうございました。

◆◆◆

20170429